12. Swan Lake 《白鳥の湖》
【奏江】
――カチ、カチ、カチ・・・・
――カチ、カチ、カチ・・・・
――ぱたん・・・・。
「もう、今日は帰ってこないのかと思ってたわ」
キョーコが帰ってきた。
今日はもう「朝帰り」で帰ってこないはずだと思って、のんびり大好きなメトロノームの音に聴き入ろうと思っていたのに。
「土屋さんに渡されたプレゼント、テーブルの上よ」
「うん。一緒に持ってきてくれてありがと、モー子さん」
それだけ口にすると、キョーコは私の部屋のドアも開けずにすぐに隣の部屋に引きこもった。
――敦賀蓮と何か、あったわね。
それぐらいは私にも想像がついた。
今日のお祝いを企画したのは彼女なのよ?
今まで敦賀蓮といた事も確かでしょうし。
最近あの子の様子がおかしいのは何となく気付いていた。TVを見て急に泣くは・・・敦賀蓮のCDを貸して欲しいだの・・・挙句の果てにあんなに嫌っていた相手に師事するでしょ?天変地異だわ。
そもそもあの子が敦賀蓮と共にいること自体、ありえないでしょって・・・学校中のいい噂の種。もともと不破のおかげでそういった類の事には慣れているのでしょうけど。さっきも、私にまで「最上キョーコは、いったいどうしちゃたの?」なんて聞かれる始末。私が聞きたいわよ・・・。
あの子が「仕事」で大嫌いな敦賀蓮と一緒にいるとは、いくら同じラブミー部員だからといって、公言はできない。しかも「師事する事」は「仕事」ではないのだから・・・。本人が選んだもの。
それに敦賀蓮は最上キョーコを嫌っていない。むしろ今日の二人の様子を見うる限り、我が目を疑うぐらい「仲がいい」。周りが「どうしちゃったの?」と・・・言ったのも頷けた。
あの子が不破以外の男にあんなに懐くなんて思わなかったわ、と思って、その様子をにこやかに見守っていたえらく上品な様の土屋さんに「6年来の付き合いですけど、私には信じられない光景なんです」と一言告げたら、「やっぱりキョーコちゃん、しっかり蓮様に落ちたのかしら?良かったわ。」と嬉しそうに笑っていた。
土屋さんのその嬉しそうな様子に、そうなのよ、あの子も一応「キョーコちゃん」なのよ、と・・・ふと思った。私はあの子を「キョーコちゃん」なんて呼ばないから、思い浮かばなかったのよね・・・・。
「あの」敦賀蓮が、あの子の「敦賀さん、これ弾いてください」の一声で、「いいよ」なんて・・・軽く言って弾いた音は、分かる人間には分かる、ごく真面目で演奏会用と言っても過言では無いぐらい本気の音だった。選曲はなんとまぁ先生の出した課題としてピアノ用に編曲した「白鳥の湖」。
あの子の趣味でたまにお店で弾いているとかで・・・その手書き楽譜があったとはいえ、敦賀蓮が、まさかそれを受け入れるとは思わなかった。
敦賀蓮はそれをじっと見て、「編曲もするの?また違うのも見せてね。」と。で、しばらくその楽譜を見ていたかと思ったら、「うん」と言って・・・弾き出した。
どんな曲であれまさか敦賀蓮の生演奏をタダでこんな近くで見られるとは思わなくて、気付いたら拍手を送っていた。あの子の宿題はチェックの為に頼まれて見たし、その編曲楽譜は頭に入っているけれど・・・先生にも褒められたぐらい、割と難易度は高かったはず・・・。なのに。見事に初見で完璧に弾きこなしていた。その上、生まれてこの方毎日メトロノームで遊んでいる私ですら、鳥肌が立った。完璧で正確なタイムコントロール。彼は弾く前に既に付き合いでお酒を口にしていた。それなのに一小節もずれなかった。体の中にメトロノームでも飼っているのかしら・・・・。
生ピアノで毎日のように演奏が繰り広げられるあの店は耳の肥えた人間が集まる場所だと聞いてはいたけれど、さすがに「敦賀蓮」だと気付いた客は、我が目を疑い、私と同じ反応をした。それが普通なのよ!!おかしいのはあの子。「ね?敦賀さんってモー子さんと同じで譜読み暗譜がすごいの。私が師事した理由、分かった?私もモー子さんみたいに早く読めるようになりたいなぁ」だけで済まさないで欲しい・・・・。
敦賀蓮は、弾く事に非常にこだわる人間だと、代名詞のように書いてある。「弾く事」に神経質な人間。置いてあるピアノはさすがプロのコンサートもたまにやっているだけあって、いいものだけれど。敦賀蓮は半分アマチュアだったとはいえ、めったに人前で弾かない事で有名・・・。そんな敦賀蓮が、こんな所で初見行き当りばったりの演奏をするなんて、それ自体が奇跡に近い。
それをアンタがお願いしたらあっさりこんなトコで弾いたのよ?それをさも当たり前のように「敦賀さんさすがですね」の一言と「白鳥の湖」が聴けて嬉しそうな笑顔だけで・・・。さすが「嫌っていた」だけはあると、あの子の反応にも驚いた。あの子にとって敦賀蓮の「イメージ」は、たった「一週間」なのだから。情報も先入観も無い分、敦賀蓮を敦賀蓮としてそのまま受け入れているのかもしれない。
その後二人はずっとピアノの周りで楽しそうに話しては、彼女が仕事用に弾いていた。敦賀蓮はジャズは弾かない。だからなのか、その手許を見るようにしてずっと傍にいた。
敦賀蓮が彼女の一言でピアノを弾くのも、あの子に向ける目がまるで恋人のように優しいのも、あの子が初めて敦賀蓮と会った日初めて朝帰りをして「キョーコちゃん」の覚書を告げた時おかしな様子だったのも、嫌いなのに師事するのも、もし、二人が「それ」なら頷けると思って、敦賀さんに少しだけ協力をした。
「いつも仕事の日は帰って来るの遅いの?」
「そうなんです。同部屋としては、ちょっと心配です。敦賀さん、今日はあの子送ってもらえませんか?」
「分かった、いいよ」
「あ、この間みたく朝まで帰ってこなくても、いいですから。私思い切り、メトロノームで遊べますし」
「くすくす・・・。譜読み早いんだってね。あの子が君の事を目を輝かせて自慢してたよ。仲がいいんだね」
「6年来同部屋ですから」
「そう・・・・」
二人きりにしてあげようと思った。
あの子が・・・・不破尚以外の男とあんなに目を輝かせてピアノと触れ合っていたのは初めて目にしたから。彼があの子を救うかもしれないと・・・・。不破との事をもう、あの子から断ち切ってあげなければ、あの子は多分ずっとラブミー部にいるだろう。
私が何を言っても同じ穴。あの子に響かない。余計なお世話なのかもしれない。だけど・・・あの子が「自ら」選んだ不破尚以外の初めての師が彼で、彼があの子を選ぶなら。彼に任せてみようと・・・・。
帰りがけ、土屋さんは「あんなに楽しそうな蓮様、初めて見ましたのよ。また思いがけずいいものが見られましたわね。」と、満面の笑みで私に告げた。それは、モデルとしての彼ではなくピアノを弾いていた彼のことなのか・・・あの子と一緒にいるときの穏やかな表情を指しているのか、若しくはその両方か・・・・。
この二人部屋からは、一人部屋が見える。
敦賀蓮の部屋の電気がついたのは気が付いていた。
不破尚も久しぶりに帰ってきているようだった。
あの子はこの部屋に帰ってこなかったから、もう朝まで・・・・帰ってこないと思った。
――カチ、カチ、カチ、カチ・・・・・
――カチ、カチ・・・・
――あの子がラブミー部からいなくなったら・・・・少し、寂しいわね・・・。
――メトロノームの正確なリズムが・・・・今はなんだか鬱陶しいわ・・・。
「ただいま、モー子さん」
部屋の外からドア越しに掛けてくれたその声を聞いて、少し嬉しかったような、敦賀蓮はこの子の事をなんとも思ってなかったのかしらと、私の当初の目論見が外れて意外だったような・・・不思議な感情が同時に身体の中に渦巻いた。
あの子の部屋のドアを叩くと、「なぁに?」と中から声がした。開けてはくれなかった。
「パーティ楽しかったわよ。あんたの変な編曲楽譜・・・敦賀蓮が真面目に弾くなんて思わなかったから。でも今度はあんたが弾いたの聴きたいわ・・・」
「うん、ありがと。オヤスミ、モー子さん・・・」
いつもなら「変な楽譜ってヒドイ、モー子さん!!!」と喰いつくトコを・・・オヤスミ、の一言で一蹴された。
あの子を救うのは・・・・誰なのかしら?
敦賀蓮は、違うの?
彼と彼女は「その繋がり」があるんじゃないの?
いつか今日の事を話してくれる日を・・・・待ってはいるけれど。
その前に一言だけ・・・・。
「あんた・・・・ちゃんと寝なさいよね。明日は学長の前での定例発表日よ?寝不足で行ったら即刻音が狂って見てもらえないわよ?」
「あぁぁぁ~~~そうだった~~~~~!!!」
――カチ、カチ、カチ・・・・・
――カチ。
いつもの彼女らしい声がして、少しだけ安心して私は今日のメトロノームの音を止めた。
2006.04.06