11. Piano in the dark
――彼女を試しに抱えて・・・・思った事がある。
――オレはやはり「落ちたらしい」。
耳たぶまでまっかなキョーコは、腕の中で蓮の身体に顔を埋めたまま・・・微動だにしなかった。
蓮に促され、懸命に恋人のように演技しようとするキョーコの息遣い、その近さへの多少の困惑と緊張と・・・遠慮がちにまわされた柔らかな腕の力を肌に感じている間、強く抱きしめ返した自分の腕は、もはや演技ではなかった。
蓮はたった一駅、ただ支える為に抱えてみただけ・・・のつもりだった。
でも、途中から自分の気持ちの方が勝った。もはや彼女が何者だろうがどうでもよくて、このまま部屋につれて帰りたいと強く思った。
そして、キョーコの言った言葉が思い浮かんだ。
『「キョーコちゃん」に好きな人がいたり、結婚していたらどうするんです?』
今までなら「割り切る」だけで済んだ。そう、それだけ。
それでいいはずなのに。
目の前にその本人がいて、別の好きな男のことで苦しんでいるのを、どうにかしてあげたい・・・・いや、どうにかしてあげたいのではないのだろう、どうにかして自分の手にしたいのだと思う。
自分の気持ちの押し付けで、彼女の気持ちは別の所にある。
キョーコは蓮を、蓮が肌で感じる作り上げられた一般的な敦賀蓮ではなく、「自身」で全て最初から判断している。肩書きは嫌い、そして蓮に対する先入観があったにせよ、ピアノの音は嘘をつかないと何度も蓮に言った。
そして、接してみて、もう嫌いじゃないと言う。
その言葉にウソは無いと思う。蓮が先程の店で、キョーコのたっての願いで一曲弾いた時のキョーコの心底嬉しそうな顔をしたのが、それを表していた。
――この子が二十一年彼を思い続けてきて、苦しみながら今ピアノを続ける理由が彼にあるなら、オレは先に約束を守ったし、もう彼女はピアノなんて止めてオレの腕の中にいればいいのに
――教える、と決めたのに・・・・。
彼女を不破から離せるなら、彼女の将来や成長を少しも考えていないように思える自分もいる事にも気づいていた。
「最上さん。例の曲聞きたいから寄ってね」
駅の改札を出て帰宅する途中、蓮はキョーコに、――自分の気持ちを確かめる為に――行きの車内で告げたことを繰り返した。
キョーコは「分かってますよっ」と楽譜を取り出して、暗闇の中見ようとしていた。
「目が悪くなる」
「どうせ入ったらすぐに弾けって言われますから。先にさらっておかないと」
「その解釈。オレのままだけど・・・君の解釈は全然書いてないね」
「・・・・だって。まずは敦賀さんに追いつきたいんです。これ弾く事は出来ますが、敦賀さんのような解釈では弾いた事が無いから・・・。それにこの曲って敦賀さんの代名詞な曲でしょう?」
「君の、解釈でいい。オレのは参考でいいから。試しにさらうのは構わないけど」
「え?でも・・・」
「君の音が聞きたい」
「その・・・さっきから私の音って何度も言われてますが・・・???」
「お店でジャズを弾く君の音はとても楽しそうで、明るかったのに・・・君がこの間オレの前で弾いてくれた曲や今日先生のピアノで弾いていたのは・・・弾けているしいいんだけど、何か君らしくない。それ・・・・不破の音だろ?もしくは不破の父親の音?」
「なんでまだ会って数曲しか聴いていないのにっ・・・」
驚いたように蓮の目を覗きこみ、キョーコは、「もうそれ以上は言わないで」と目が訴えた。
けれど蓮はあえて追いつめる為に口にした。
「先生に聞いたよ。今までずっと不破を・・・追ってきたんだろ?君の音は不破の音だと」
そう言うと、彼女は「そうですね」と少し寂しげな顔をして、視線を暗闇の先に向けた。
学校の近く。校内の人間にどうしてもすれ違う。
「敦賀蓮と敦賀蓮を嫌いな最上キョーコが一緒にいる」そう後ろ指をさされていた。
けれど彼女はそういった類にも慣れているらしい。
それには目もくれず、ただ寂しそうな顔だけをしていた。
無言のまま部屋の玄関にたどり着き、入ろうとしたときに彼女は一度固まり、そっと壁の陰に隠れた。彼女がじっと陰から見ていた先には、隣の部屋の男が玄関先で大きな荷物を抱えていた。
「入っていて」
蓮はキョーコを見えないように隠しながらそっと玄関に入れて、その男の前に歩いていった。
「はじめまして」
蓮は不破尚に正面から初めて向かい合った。
気づいた尚は、驚き、そして強く蓮を睨んだ。
「先週から・・・隣に引っ越してきたんだ。よろしく。先日はパーティに来てくれてありがとう・・・」
なぜ彼が来たのか蓮には分からない。ただ学長が持つ同じレコード会社だからというだけなんだろう。
「・・・・どうも」
彼は視線を逸らすと、それだけ口にして、中に入ろうとした。
「待って」
「・・・・?」
「この間の件。君の彼女・・・の事説明させて欲しい」
何かを疑った目を向けた彼は、「何の話?」とそ知らぬふりをした。
「あれは本当の事じゃない。君は彼女を「約束」を破ったと・・・言ったみたいだけど・・・あれはラブミー部の仕事としてオレがお願いした事だから・・・悪かったよ」
彼に謝って自分の立場を明かしているだけなのに。蓮はキョーコを手にしたいのに、こんなフェアで紳士なふりをしなくても・・・・と、自分で自分が、内心ひどくおかしかった。
「でも・・・別に。オレはキョーコが誰を選ぼうと構わない」
「結婚の約束をしているんだろ?」
「アイツ・・・・そこまで話したんですか」
「いや。これは先生から。先生も君を心配してる」
「キョーコが・・・約束を果たした時にオレの心とアイツの心がどこにあるかでしょう。先生には明日会いに行きますから」
「なぜ・・・今手にしない?」
「じゃあ逆に聞きますが。なぜあんたはそんなにオレたちの間に入ってくるんです?」
そう言われて返す言葉が無かった。
君と同じ立場だから、と、言いたい所だったけれど、キョーコに本当のことを告げていない今は、不破尚にも本当の事は言えない。
確かにただの大きなお世話だと思うだけだろう。
「オレは・・・先生と共に彼女のピアノを見てる。彼女の精神的ケアもオレの役目。・・・だけどもしその間にオレが、彼女に手を出しても君は構わないわけ?」
「・・・・最初からそう言ってくれば話は早かったんですよ。精神的ケアって何ですか?手を出す、が言いたいんでしょ?でもアイツはオレだけだから。オレのことを全て分かっているのがアイツなら、アイツを全て分かってるのもオレ。アンタが探す「キョーコちゃん」が見つかるまでの間の隙間女をアイツ自身が「自分で」選ぶなら、オレはアイツを止めません。オレも人の事言えないですし。ほら」
そう言って、彼は玄関をちらりと開けた。
彼の連れらしい女の子が中から不安げに「尚」と・・・・呼んだのを見て、蓮の感情は逆撫でされた気がした。
「ね?別に」
「なるほどね。有名とは聞いていたけど」
「彼女はオレがピアノを教えてるんですよ。同じ事です。それ以上のこと、していると思います?」
くすくす、と不敵に笑った不破尚は、「奥行ってて」と、その女の子を退けて再びオレに向いた。
「ピアノ、弾いてはいる訳だ。あの子にはもう教えないわけ?」
「アイツは完全にオレの音を理解しているし・・・あとはあの変な部さえ出られれば国内コンクールなんていくらでも優勝しますよ。先生やあなたがアイツを見るぐらいなんですから。それぐらい見抜けたでしょう?」
「君はもう・・・コンクールに出ないの?」
そう言うと、不破尚はまたオレをキツク睨んで「質問攻めはごめんです。おやすみなさい」と言って、ドアをぱたんと静かに閉めていなくなった。
自室に戻ると、キョーコは玄関にいなかった。リビングの窓際で背を向けて立っていた。蓮の気配を察したのか、背を向けたまま口を開いた。
「私がしなきゃいけなかったのに・・・ごめんなさい・・・」
「いいよ、それよりも・・・」
荷物を床に置いて、窓際から動かないキョーコに近寄った。キョーコはそれでもこちらを向かなかった。また、泣いているのだと思った。蓮が横に立つと、キョーコは蓮に向き、ただ、どうしようもなく力なく笑った。
「大丈夫?」
「大丈夫、です」
「どこまで聞いてた?」
「・・・・「奥に行っていて」。アイツを呼んだ彼女・・・の声は、知っている人です」
以前と同じように、キョーコは今にも泣き出しそうな自分を必死で止めている様子だった。
「ごめん・・・君の前で彼を追い詰めすぎた」
「どうして追い詰めたんです?どうして、私たちの間に・・・」
そこまで言って、ごめんなさい、とキョーコは目を伏せて口をつぐんだ。
「今日はもうあの宿題はいいよ。飲みなおそう。付き合って」
蓮がお湯を沸かす間、キョーコはずっと窓辺にぼんやりと立っていた。そして、ふぅ、と一つだけ、深い溜息をついた。
紅茶にリキュールを落としてキョーコに渡した。
蓮は、座って、と言って、キョーコをソファに座らせた。
キョーコは紅茶を一度口にした。
「どうして、君は・・・ピアノを弾くの?」
キョーコは、びくり、と一度震えたまま、動かなくなった。ゆっくりと視線を蓮に合わせたものの、答えに困った様子で、ただ蓮を見つめた。
「不破の為?」
「・・・・・・・」
「なら、やめたほうがいい。君は一生ラブミー部から出られない」
「約束が、あるから」
――オレと君の約束?それとも、彼と君の約束?その両方・・・?
「・・・・約束が無くなったらピアノは弾かない訳?そんな気持ちならやめた方がいい、と言ってる」
「ピアノはっ・・・好きですっ。だけど・・・今一番の目的を聞かれたら・・・」
「名誉や肩書きは嫌いなんだろ?でもピアノを弾くのは好き。コンクールに出なくても君は弾くだろうね。でも約束があるから、やめられない。彼との約束を、果たしたいんだろ?」
「・・・・・」
「それとも君は一生彼との約束に縛られていたいの?」
「・・・そうかもしれません・・・」
即答されて、蓮はひどく苦しかった。
キョーコが弾く理由が不破尚にあって、苦しんでいる理由も彼にある。約束に縛られたままでいたいなんて。
「君は約束を果たさないからいつまでたっても彼に負い目を感じるんじゃないの?いつまでたっても彼を忘れられないんじゃないの?」
「忘れる?」
「好きなの?彼を」
「えぇ」
「君をほったらかして・・・夜中に他の女の子を教えてなんていう理由を平気で言う彼を?」
「・・・敦賀さんと同じ、って言っていましたから・・・」
「・・・もう・・・向こうの明りは消えてるけど」
しばらく前に明りが消えた。それをキョーコが横目で見ていたのを、蓮は知っていた。
わざと指を指した。
確かに見えていたはずの明りが見えなくなっている。
「・・・・分かって、います。私がここにいる事も・・・世間は「そういう」風に取るんでしょう・・・」
「君には手を出さない、と言ったから安心してる?」
「・・・・・・」
信じてる、とキョーコの目が蓮に訴えていた。
そして一口紅茶を口にして、ふぅ、と溜息をついた。
「君は八十八個の鍵盤の向こうに何かがあるって・・・言ったけど。君が・・・ピアノを弾く向こうには何がある?」
「・・・破滅と絶望の序曲が聴こえます」
蓮は思わず絶句した。
「そんな事の為に君はピアノを弾いているの?せめて楽しいからとか幸せがあるからとかじゃなく?君は不破を追ってここまで来たんだろう?その不破に追いついたら幸せがあると思っているから、今でも続けているんじゃないの?」
「これを追った先に「別れ」がある事が分かっているんです。だから、ピアノを追いきれないし、約束を反故にも出来ない。約束なんて「言葉」にすがってどうすると敦賀さんが初めて会った時に言いましたよね。私もそう思います。今まで、私がアイツの記事を見ても何とか平気だったのは・・・相手が年上だったからです。今の声は同級生ですから・・・。歳じゃなかったみたいです」
「あいつとの約束なんて破ってしまえばいいのに・・・」
「互いに互いを分かっていて、好きで、ピアノが目の前にあればそれだけでもう何もいらなかった。幸せだったんです。付き合ったらもう結婚だと思っていたから。だから私はピアノに集中したくて彼と約束をしました。「お互いに一番になったら結婚しようね」って。彼はもう随分前に一番になりました。私は待ってくれていると、思っていたかっただけです。その間に生きる道が・・・少しずれてしまいました。分かっていたんです。ただ・・・この世でたった一人になるのがイヤだっただけなんです。もし私が結果を出して、彼に約束を果たした、と言っても、きっと「遅かったな」の一言で終わるのが分かっていたから。その約束を夢見ていたかったんです。私は彼のシンデレラでいたかったんです。愛の夢の中にいたかった・・・彼と一緒にピアノを弾くのがただ楽しかったあの頃に戻りたい・・・・」
すっと立った彼女は、「流音ちゃん借りますね」と一言言って、部屋をあとにした。泣く所を見られたくないのだろう。
しばらく蓮は一人でぼんやりとグラスを眺めていた。くるくると中身を回していて・・・それと共に遠くからピアノの音が漏れ聞こえる。
キョーコのむき出しの感情と率直さは危うくて、それが逆に惹かれている原因なのは、泣いたキョーコを抱えて分かっていた。そして、今また、キョーコの中に見た一瞬の弱さが、さらに蓮を惹きつけた。キョーコのピアノを弾く理由は不破尚との約束だけだと、痛いほど思い知らされる。
――約束、という言葉に、自分が一番すがってきたくせに。
それがキョーコを苦しめるなら。
もう、これ以上不破尚との約束にキョーコが縛り付けられているのは、嫌だった。蓮との約束を忘れている事がまた、更に悔しく思えた。
蓮も立ち上がってピアノの置いてある部屋に向かった。キョーコは宿題の曲、幻想即興曲を弾いたけれど、蓮の解釈ではなく――感情のままに弾いているのだろう――激しくてなぜかとても悲しく聴こえる。
それが弾き終わると、弾きながらまた例のCDの中の歌を何曲も歌った。泣きそうな細く高い声が部屋から漏れている。蓮はそれを廊下で立ったまま、黙って聞いていた。
キョーコのピアノが感情に左右される、と学長がいうのは当たっているのかもしれない。キョーコはピアノで感情の発散を図っているのかもしれない。切ないキョーコの感情。
蓮が聞きたかった、キョーコの音と声だった。
その高い声があまりに悲痛で、心が痛かった。ピアノに乗せて歌った英語の歌はうまく歌詞が聞き取れなかった。不破の今部屋に居る彼女の事と・・・自分の気持ちを歌っているようだった。今不破の部屋にいる子は、自分のようには彼を理解できない、と言いたいであろう内容。立ち直ったつもりでも全然ダメだと。自分を出すのが怖くてさよならも言えなかった、と・・・。
『オレのことを全て分かっているのがアイツなら、アイツを全て分かってるのもオレ』
不破尚が蓮に言った言葉が、蓮の中で浮き上がる。
キョーコも、「そう」なのだろう。蓮が知らないキョーコを全て不破尚が知っていると思うだけで、離れた十数年を感じた。さよならも言わずに・・・と言われて・・・・追い詰めた罪悪感が募った。それでもこれが、キョーコなりの、気持ちにけりをつける為の儀式なのだろう・・・・。
歌いきって、キョーコは、がくり、とうなだれた。
ピアノの蓋を閉めて、両腕を置いてつっぷして顔を埋めた。
蓮は、追いつめた以上、慰めなければ・・・・と思った。けれど今、入ったら、多分、余計な慰めをする。キョーコを割り切れなくなる。キョーコも今傍にいれば、蓮自身に本気になるかもしれない。そうなったら互いに割り切れなくなる。
――オレが彼女を欲しいのは、過去の思い出の中のオレが切望するのか、敦賀蓮としてなのかは分からない。将来的に彼女を傷つけるかもしれない。だから、今、弱った彼女に付け込むのは卑怯だと分かっているのに。
でも感情が溢れ出すのを、止めなかった。不破尚から離れて自分のものになるなら何でも良かった。
「満足、した・・・?」
顔をあげて振り返ったキョーコは、泣いてはいなかった。
「・・・・・・聴いてたんですか?」
「・・・・おいで」
「いや、です」
「キョーコちゃん・・・・」
「ずるい、です・・・。二人の時はその名前で呼ばないって・・・」
「キョーコちゃん」
「私を・・・泣かせたいんですか?こんな時ばっかりいつも優しくて・・・本当にずるいです・・・」
意地を張って動かなかったキョーコの傍に立つ。真っ黒で短い髪をそっと撫でると、我慢していた涙がぼろぼろと落ちて、「敦賀蓮のばか・・・」と呟いて涙をこぼして目を伏せた。
「オレに会ってから泣かなかった日が無い・・・と言っただろう。いいから。また抱えていてあげるから・・・。オレの前では、君の奥深くを全部さらけ出していいから・・・」
「ふ・・・・ぅっ・・・・」
リビングのソファまでもう一度連れた。さすがに今日ベッドに連れて、何もしないでいられるとは思えなかった。キョーコを横から引き寄せた。抱いたキョーコを撫でて、耳元で「大丈夫、大丈夫だよ」と暗示を掛けていく。今日は声をあげて泣かずに、ただ必死にしがみ付いて声を殺して泣いていた。
そして、「また泣く事が分かっていたならあの時にもう忘れてしまえば良かった」と言って、「敦賀さんのばか・・・・」と・・・付け加えた。
泣いて泣いて、涙さえ出なくなった頃、キョーコは呟くようにもう一度先程の歌を歌った。蓮の体に悲痛な音が直接響く。彼を愛していると・・・愛して欲しかったと、キョーコの心が叫んでいるのが分かる。止めたかった。
蓮はその歌う唇に指をおいて先を止めた。
唇にぎりぎりまで顔を近づけると、キョーコは少し驚いたものの、抵抗しなかった。余計な慰めを・・・キョーコに自ら選んで欲しかった。
「・・・オレを選んで・・・・」
「私を・・・哀れんでいるんでしょう?キス一つ経験無いのに、こんなに泣いて・・・」
「選ぶのは君だよ・・・?オレは君を裏切らない。オレは君に手を出さないと言った」
「隙間女にはなりたくない・・・」
「じゃあオレと結婚する?」
キョーコはふっと・・・詰めていた息を吐いて、細めていた目を丸くして、また力なく笑った。
「君が欲しい「約束」だろう?キスをしたら結婚」
「今までもそうして「気に入った子」を口説いてきたんですか・・・?」
「・・・オレの・・・「溜息」・・・のイメージはこんなキスする直前の・・・息を吐き出す感じ・・・・」
「ふふ・・・敦賀さんって・・・本当にどこまでもひどい・・・」
キョーコは諦めたようにそっと笑って、蓮の首に腕を回した。そっと引き寄せたキョーコの柔らかい唇は震えていた。ただ互いについばみあうだけ・・・それだけなのに、ひどく切なかった。
「キョーコちゃん」として見ているのか「最上キョーコ」として見ているのかも分からず、ただただ心が苦しくて、何度もそっとついばみあった。
キョーコの体から、くたりと少し力が抜けて蓮に身体を預けたのを見て、蓮は唇を離した。
「ダメ、これ以上すると君を帰せなくなる」
「・・・・・っ・・・・・」
我に返ったキョーコは真っ赤になって、顔を隠すようにまた蓮に抱きついた。蓮にはその様子さえ可愛く思えて仕方がなかった。自分でキョーコを追い詰めたくせに・・・キョーコが自分を選んだ事が蓮は単純に嬉しかった。
「泣くのは今日で最後にしよう?」
「はい・・・・」
キョーコがようやく落ち着いた頃、蓮はキョーコの涙を拭いながら、声をかけた。
「君を縛っている全ての「約束」を全てオレに預けて欲しい。オレは君を裏切らない。君をラブミー部から出して、世界に出す。オレが「約束」するよ・・・。君はそれを堂々と引っさげて、その時改めて彼にぶつかるでもいいし、もうピアノをやめるでもいい。どちらにしても・・・目先の新しい「約束」は不破じゃなく、自分自身と世界だけが相手、それだけでいい・・・。他の事はオレに任せて。いいね?」
半分はただ本当に思う事。半分は欲だと、キョーコは気づいただろうか。彼女を不破から遠ざけたいのだと、キョーコは気づいただろうか・・・。
でもキョーコは、急に蓮が言った優しい言葉を噛み砕ききれなかったのか、きょとんとした顔をして、一瞬戸惑った。
でも、ゆっくりと蓮に視線を合わせて、一度深く頷いた。
「・・・・・はい・・・・。でも敦賀さん・・・プロへの転向もあるでしょう?」
「そうだね。だけど君は初めての教え子で、初めてオレに大嫌いだといったのに、オレは君も、君の音も気に入った。世界に行く力もある。だから。今ここで止まったら・・・ダメだ。八十八個の鍵盤の向こうに、君の新しい世界がある。完全にオレの自己満足だよ。だけど、そこまでオレが引き上げる。君も不破を手に入れるでも見返すでも約束を守るでもいい。オレを使って、オレを利用するだけすればいい・・・。オレは君に恋人役をお願いする、それが互いの最初の約束だろ?」
それを今口にするのは、互いに割り切る為だと、キョーコにいつでも割り切らせる為だと思うのに、心はひどく痛かった。その痛みを感じて、確かに心の奥底がキョーコを愛しく思っている事を理解した。
「はい・・・」
「君の信頼をようやく得はじめたところなのに、ここで君が嫌がる事をしたら一生近寄ってもらえ無そうだからね・・・。君の嫌がる事はしないとそれも「約束」するよ。だからもうおやすみ・・・」
蓮はもう一度軽くキョーコを抱き寄せて、「次泣く時は、嬉し泣きにして」と、それだけ告げて、キョーコを家から追い出した。
キョーコが割り切った「女」の目を一瞬したのを、蓮は見逃さなかった。
蓮が「仕事として」割り切ってキョーコに手を出し、傍にいるとキョーコが思い込んだのは、今までの会話の流れからすれば自然な事だろう。
――今までと同じ。なのに・・・・
ついばむだけのキス一つで、こんなに苦しくなるとは思わなかった。恋をする、とは、きっとこんな感じなのかもしれないと思った。そして、彼女となら恋をしようと、しても良いと、そして、恋をしてみたい、と、初めて思う。恋をしようとしなかった事も、心の奥底にあるどこか冷めたような部分で自分を守る事も、キョーコの前でなら、必要無いような気がする。自分を全て見せても良いような、自分を少し許せるような気さえしてしまう。
キョーコの不破尚への想いは、恋、なのだろうか。辛い思いをしても、他の女と夜を共にしていても、まだ、恋を、しているのだろうか。こんなに愛しいような気持ちを、彼に感じているのだろうか。
――彼女の自分への想いは、少なくとも、寂しさを埋めるための同情や慰めを受け入れただけで、恋などではないのかもしれない・・・・。
彼女を世界に出したとき。
オレはどうなるだろう。
彼女はどうするだろう。
蓮はキョーコから貰ったCDをその晩、一晩中かけて何度もリピートして聞いていた。
キョーコが歌った曲を思い出すと、彼女の不破を本気で諦めきれていないだろう苦しい気持ちと、蓮を割り切った、本気では無い気持ちが見て取れて・・・蓮は眠れなかった。
2006.03.12