23. Jeux d’eau《水の戯れ》
「ストップ・・・そこはペダルを踏みすぎたらダメだよ・・・」
なぜか、キョーコはイタリアの地で蓮の指導を受けている。
「ラヴェルの曲はペダルで音をぼんやりさせてはダメだ。譜面に忠実な君らしくないね。弾いて見せるから変ろう。あぁ、ピアノが一台しかないのが不便だな・・・」
蓮の変らない一音へのこだわり。数回繰り返してくれる。ペダルのタイミングと音を楽譜に書き入れ耳で覚えて、「ありがとうございます」と告げた。
「OK?」
「はい」
出かける予定だった。けれど、あいにくの雨。
少し降りは弱まってきた。それでも蓮は、まだしばらくここにいるからいつでも出られると言って、「ピアノ、聴かせて」と言った。
フランスに行くなら、と、ドビュッシー、サティ、ラヴェル・・・と数冊持ってきていた楽譜のうちの一冊、ラヴェルの「水の戯れ」を弾いていて、今に至る。
*****
キョーコが早朝ふいに目覚めると、すぐそばに蓮の閉じた長いまつげ。穏やかな息。頬は勝手に照れる。シャワーでも浴びようと、起こさないように上掛けをそっと剥いで出ようとすると、後ろから「おはよう」と言われてその長い腕に引き戻された。
「ひゃあ。び、びっくりしました・・・起きていたんですね・・・おはようございます・・・」
「シャワーなら一緒に浴びよう・・・お湯張って・・・バブルバスにして・・・」
寝ぼけているのか本気なのか・・・目を閉じたまま、蓮はそう言って、キョーコの背を無意識なのか撫でた。
「あ・・・・あのっ・・・。お、お手洗いにっ・・・」
「うん・・・起きる時声かけて・・・」
下手な言い逃れと共にベッドを出た。腕の力を抜いた蓮はすぅ、と意識を手放した。
まだ夜明けの月がうっすらと傍にあって、暗い。大きな重圧と緊張から解き放たれ、夜中までキョーコの相手をした蓮は、穏やかに寝息を立て続けた。
キョーコといえば所謂時差ぼけ・・・で、目が覚めてしまって、シャワーを浴びると起こしてしまうし・・・と、簡単な格好をして、鍵だけ持って部屋の外に出た。
真夏のイタリア、この時間はまだいくぶん涼しい。
鳥の朝の囀りを聴いて、日本よりも鳴く音が高い・・・コレはソ♯・・・コレは・・・と耳が聞き分けているうちに、空も白ばみ、日が出てきた。
「おーカワイーオジョーさん。オハヨー!」
「・・・・?あ、あれ???お、おはよう、ございます?」
たくさんの花を抱えて現れたのが昨日会った「お花屋さん」だった。彼は「ここも僕の仕事場」とそう言って、花のたくさん入った箱を何箱もエントランス近くに置いた。
「オ~・・・」
彼は目をぱちぱちとさせて、独り言の用に「ちょっと待っていて」と英語で言うと、花がたくさん積まれている車に戻り、またたくさんの花束を作りキョーコに手渡した。
「レンも君が可愛くて、仕方ないんだよね。綺麗な花だね」
そう流暢な英語で言って、彼の喉仏の辺りを指差した。
「ゃ・・・・・やあ・・・・・」
「ハハ、カワイ~!」
付いていた蓮の跡を、「他の男に見せないように花で隠しなさい」と言って、彼はまたキョーコの髪を自然と梳いた。蓮と同じぐらいの背丈のある彼を見上げると、朝日のきらきらした太陽の逆光で、その髪は濃い茶色が薄茶に透けて、綺麗だった。
「オオ、オジョウサン、目の前に怖い人が」
その綺麗な色に見とれていたら、くるり、と花屋の男に腰に手を回されて身体を返された。キョーコの身体の前で彼は両手を組み、ごく自然に彼の腕の中に収まっていた。
「キョーコちゃん・・・」
「つ、敦賀さん・・・あの・・・」
「やあ、レン。久しぶり」
「久しぶりだね。だけどそれはオレの。返してもらおう」
花屋の男の腕をすぐに解いた蓮はキョーコの肩を抱いた。
「おお怖い。キョーコ、こんなに怖い男はやめて、僕にしよう!」
「・・・・・?敦賀さん・・・あの・・・昨日、彼が席がお隣だったお花屋さんで花束をくれた方なんです」
「知ってるよ。もちろん見えてた。レオ。女の子とあればすぐに口説くのやめないか」
「口説いてナイ~・・・カワイーオジョーサン、ホメル、トウゼン!キョーコ、カワイー!」
「あとその変な日本語もね。オレはそんな変な日本語教えたつもりは無いんだけど」
「あれ?日本語、通じて無い?もちろん英語は君に通じているだろ?」
「あ、あの・・・敦賀さん?」
「彼はイギリスに居た時の同部屋の相方だよ。土屋さんを口説いてすぐに振られて、振られついでに土屋さんに引き抜かれてモデル仲間にまでなってる。専門は調律なんだ。花屋と調律の兼業が家業でね。あの劇場で弾けたのも彼のおかげだし、彼に調律を習ったのはありがたかったけど・・・。ったく・・・隙あらばすぐに女に手を出す。君が昨日くれた花もレオが仕立てたのは分かってはいたけどまさか昨日の今日で・・・」
「何?レン、難しい日本語オレには分からない」
「手を出すのが早いイタリア人、って言ったんだ」
「チガウ!!キョーコ、チガウ~・・・キョーコカワイイ!!レン、キョーコがカワイー、ダカラ、カゲンナイ!!ソレ、ダカラ、キョーコ、ハナ~~~~!!!」
くすくすくす・・・とキョーコはおかしそうに笑った。必死に変な(とても一生懸命な)日本語でキョーコに弁明する様子に笑いが漏れた。
気づいた蓮が花束に隠れたキョーコの首元の赤い跡の辺りをすっと撫でて、「彼女はオレの。コレはオレのモノの印。だからレオでもダメ」そう英語で言って逆にキョーコの身体を彼がしたのを同じように、両手を前に組んで腕で身体の中に入れた。
レオ、と呼ばれた彼は「知ってる」そう一言またあの大きな優しい笑顔で返した。
「レン、・・・・・・・・・・・」
「Yes.」
その後二人はすごいスピードの英語でまくし立て始めたから、キョーコには良く分からなかった。昨日の話や久しぶりの日常会話をしているようだった。
「あのね、今度君の音を聞きたいってレオが言ってる」
四・五分ほど立ち話を続けていた二人が、キョーコを見た。
「え?えぇ、お花のお礼にならいくらでも・・・。敦賀さんのようには弾けませんけど・・・」
「いいって、良かったな、レオ」
「オー、キョーコ!!タノシー!」
レオはどうも日本語をあまり知らないらしい。その単純な日本語のせいで、キョーコはおかしくて、どうしてもくすくすと笑いが漏れてしまい、蓮との真面目な会話などそっちのけで、一人なごんでしまう。
「キョーコ?レン、グレイテストピアニストー。ダカラ、ズット、ソバ、イテネ」
「あ、あの」
「レン、キョーコ、イナイ、ダメ」
「・・・?」
「レオ。やめないか」
「おや。レンを怒らすと怖いからね。照れなくたっていいのに。恥かしがり屋さんだね」
「レオ」
「ハハ。だから、キョーコ、レンをよろしく頼んだよ。君次第だ」
「・・・・?え?何、なんて言ったんです?早くて聞き取れなかったです」
「オレの傍にいてあげて欲しいと、そう言っただけだよ」
「ぼくとレンはトモダチ。だから、キョーコと僕もトモダチ。またアイマショー!!オー、シゴト~!!バイ!!レン、キョーコ泣かしたら僕のものにするよ~」
箱を抱えて大きな笑顔を残してレオは行ってしまった。まるで太陽のように元気なパワーを内包したように見えた。そして、蓮が珍しく人に気を許す。彼にそれを許すのをキョーコはどこか分かる気がした。彼の屈託のない大きな笑顔が、何もかもを許してしまう。
まったく、と言いながらふぅ、と息をついた蓮も、嫌がってはいないようだった。
「キョーコちゃん?ベッド出るなら起こして、って言ったのに・・・」
「はい・・・でも、あの。起こしちゃうの悪くて・・・」
「じゃあ、今夜一緒にバスで大目に見てあげよう」
「えぇ~~~~」
「えー、じゃないよ。どうせバブルバスにしたら顔しか見えない。ぬるま湯にして楽譜でも読めばいい・・・・・・・・おや、雨が降ってきたね。部屋に戻ろう」
「・・・・・・・・はい」
*****
「うん、そう、そのまま正確にテンポを保って・・・・待った、その小節の五の指はゆるく・・・・あぁ、そう・・・・いいね。うん。OK。少し、休憩にしよう」
「敦賀さんの・・・まるでメトロノームのようなタイムコントロール程うまくは行きませんが、この曲キラキラした水の音が跳ねて、まるで川辺で妖精が舞っているみたいで好きなんです。リストの「泉のほとりで」は、敦賀さんに弾いて欲しいです。「愛の夢」と一緒に・・・」
「そうだね、今度弾いてあげるよ。オレはそのうちリストレパートリー、コンプリートするんじゃないかな?それにしてもラヴェルの曲まで君にかかると・・・妖精なんて・・・全く君らしいよね・・・くすくす」
――「君らしい」・・・・・・・?
その言葉にキョーコは妙な違和感を覚えた。
蓮に、妖精好きだと言ったかしら?と、ふと疑問が浮かぶ。
蓮が知っている「キョーコちゃん」のようにキョーコが振舞ってきたのは確かだ。
とはいえ彼には確か、シンデレラが好きだとは言ったけれど、妖精が好きだとは一言も言っていない。
――まさか・・・・私が、「本人」だと、敦賀さんに、気づかれて、いるの・・・・?
――だから、「手を出さない」と言っていたのに、急に「好きだ」と言い出したの・・・・?
――だから、傍に、いてくれるの・・・?
蓮に、「まるでキョーコちゃんのように」振舞おうとしたのはキョーコが決めた事だった。
でも、いつでもキョーコの事を、「キョーコちゃん」と蓮が呼んでいたのは気づいていた。
なぜ仕事でもないのにそう呼ぶのか、心の隅ではどこか疑問に思っていた。
愛し合う時間は、その方が蓮にとっても都合がいいのだと勝手に解釈をしていた。
蓮との関係に流されたのは自分。
「つ、敦賀さんっ・・・・あのっ・・・・その・・・」
「ん?どうした?」
「わ、わたしの・・・あの・・・・何処が好きでその・・・・こんなに良くして下さるんです・・・・?」
「・・・・・?何?どうしてとか、理由が欲しいなら、幾らでもつけてあげるけど?」
「いえ・・・いいんです」
「・・・・・・・・・その、ネックレス・・・・土屋さんが、君に渡したんだろ?」
そう言って、キョーコの首元の蓮のネックレスに触れる。
「・・・・・」
「・・・気がつかなかった。少し顔色が悪いね。冷房で冷えた?温まろう。おいで。少し早いけど、バスにお湯溜めて一緒に入ろう」
蓮は軽くキョーコの唇を吸って、キョーコの腕を引いた。
蓮は会うたび「愛してる」と、キョーコに囁く。
――それなのに、どうして、こんなに不安なのだろう。「何が」不安なのだろう。
――蓮の指が、どんなに優しいかを、知っている。その指先が選び出す「音」が、どんなに愛しいかを知っている。
だから忘れてしまいたい事、見たくないこと、見ないフリをした、様々な自分の気持ち。
蓮の優しさの中に、全ての寂しさを閉じ込めた。
蓮に甘えきった関係など、いつかは終わりを迎えるかもしれないのに、それでも全てを蓮に預けて甘えてみたかったから・・・。
――いつか、大人気なく甘えている事に気づかれて、さよならをされる事が、怖かったみたい・・・
蓮は湯を半分張り、いい香りのする液体を落とした。
シャワーを勢いよくあてる。見る見るうちに、泡が立っていった。普段ならお姫様のようで初めて見て喜ぶだろうそれを、キョーコはただぼんやりと眺めていた。
ぼんやりとするキョーコを蓮は見つめていた。
キョーコはただ泡の消える様をただ眺めていた。
蓮はシャワーを止めて置くと、するするとキョーコの着ているものを全て取り去った。
ネックレスはそのままに、キョーコを湯に沈める。
ぬるい湯と、いい香りのするシャボン玉。
気持ちいい・・・とだけ、ただ思う。
そして、蓮の広い背がキョーコを抱きとめて、彼は後ろから、ぼんやりとするキョーコの身体を抱きしめた。
耳元に蓮の声がする。
「急にどうした?・・・何か不安がある?」
「いえ・・・とんでもない・・・」
「その敬語も、プライベートの時はもう、やめて欲しい。オレにもっと我侭を言ったっていいんだよ?」
「・・・・・・・・」
キョーコは強くふるふるふると首を振った。
ぎゅっと身体を抱きしめる蓮は、無言でキョーコの胸元のネックレスをもてあそぶ。
「このネックレス・・・土屋さんが、「もう預かれないから敦賀さんに」って。だから、これはお返しします。私が付けていていいものじゃないから・・・。イヤリングは、土屋さんのものだったのに・・・私にって下さったんです」
キョーコはネックレスをはずして蓮を振り返り、そして蓮につけ返した。
「・・・・・・・・」
目を見開いたまま、蓮は首を振った。
何を言ったらいいのか、分からない様子だった。
「それは、本当の「キョーコちゃん」に・・・・」
「それが、君を不安にさせてる要因?」
「・・・・・・ち、違いますっ・・・」
「君を愛してると囁いておきながら、違う女も追っている、と」
「だから、違うんですっ・・・あ・・・ご、ごめんなさい・・・」
キョーコの声が大きく響いた。
キョーコはまた蓮に背を向けた。
ぱしゃん、と音がした。
蓮の手のひらが、沢山浮かぶ泡を掬ってもてあそぶ。
いい香りの中、徐々にキョーコの心が落ち着いてくる。
蓮は湯の中のキョーコの手を探し出して握った。
愛されていると、キョーコは思う。
自分で自分に嫉妬して・・・蓮に八つ当たりして・・・。
最低・・・と自己嫌悪で背中が丸まった。
キョーコちゃんのように振舞おうと決めたのは自分だったのに。
「このネックレス・・・は別にキョーコちゃんにあげなくてもいいんだけどね。単に探す口実に使っただけで・・・。普段は・・・単にオフの時着けてただけ・・・」
「・・・・・・・・・」
土屋さんがキョーコに話した事は内緒だから、何も言えなかった。蓮はさらにぎゅう、と手を強く握る。
「君を、愛してるのは、本当・・・」
「はい・・・」
「でもね、キョーコちゃんに会いたいのも、本当・・・」
「はい・・・」
「キョーコちゃん・・・」
「つるが、さん・・・・」
「レオが言うとおりだよ・・・・オレは、君がいないとダメで、君が悲しい顔するだけで、こんなにも脆い」
「・・・・・・」
蓮はキョーコの右耳を食んで囁いた。
キョーコの背中を抱きしめ、子供のようなすがり方をした蓮に、キョーコはこれ以上駄々を捏ねるのをやめた。
「そのネックレスに、嫉妬を、しました・・・。羨ましくて・・・そして、重かった。だから、お返しします。イヤリングも・・・本当は私が持っていていいモノじゃないのに・・・でも土屋さんが、くれたから・・・それも本当のキョーコちゃんに・・・。私はただ、敦賀さんのお仕事の相手で、教えていただける生徒っていうだけだったのに・・・ご好意に甘えすぎてしまって・・・ごめんなさい」
「・・・っ・・・・・・」
蓮がただ静かに左右に首を振った。
拗ねているのだと、ひどい我侭を言って困らせているのだという事は分かっている。
――自分がその当人で、言わないくせに、拗ねて、イヤな女になっているんだって、でも、でも、でも・・・・
「キョーコちゃん・・・・コレは、君に」
そう言って、蓮はもう一度キョーコの首にネックレスを戻した。
「え、だって、これは「キョーコちゃん」に・・・」
「いいんだよ。新しくネックレスやイヤリングのペアを君の為に作らせても君はまた、コレに嫉妬するだろう?「キョーコちゃん」に新しい何かを作ればいい・・・。こんな物で、君が悲しむ事は無いんだよ?こんな物で君を縛っておけるなら、持っていて。こんな物で、オレを愛していると、つけて主張してくれるなら、持っていて・・・」
蓮の舌が、キョーコの唇に忍び込む。
キョーコは身体を蓮に預け、腕を蓮の首に巻きつける。
ぱしゃん、と水が戯れる音がした。
ネックレスが蓮の肌とキョーコの肌の間で擦れる。
「ん・・・っ・・・・はっ・・・・つるが、さんっ・・・」
「ね、このまま、君を抱いていい?」
「・・・・・・・・っ・・・・・」
「すごく、抱きたい。でも本当に加減出来ないかもしれない・・・・」
「・・・・思うとおりに・・・敦賀さんの気持ちを・・・・そのまま身体に伝えて下さい・・・っ・・・・」
「キョーコちゃん・・・・・・・可愛い我侭・・・誰にも、渡さない。君はオレのモノだ・・・・」
泡が、ふわふわと舞う。
温まった身体は、あっという間に真っ赤にのぼせた。
規則的な音符が並ぶ「水の戯れ」。まるでその譜面のように、規則的に水が跳ねて、踊る。きらきらと光と水が戯れる。
蓮の気持ちは、それは激しくキョーコに伝わった。
――私の気持ちは、どうだったかな・・・・・。
いやと言うほどキスをして、好きだと言い合い、互いの全てを貪りあう様に、見せ合うように、抱き合った。
ベッドに入るとまた、蓮はキョーコにキスをねだり、濃厚なキスを続けるうちに、気づくとキョーコのパジャマは無くなっている。
蓮の肌の感触が気持ちよくて、するすると撫であっていると、蓮の身体の上で、ネックレスが蓮の肌を遊ぶようにつつく。
――キョーコも、キョーコちゃんも、全身であなたを愛してる
キョーコが言えないそれを、代弁してくれているかのように・・・・。
「敦賀さん・・・起きてますか・・・?」
「うん・・・」
「私、敦賀さんに沢山謝らなきゃ・・・」
「うん、何・・・?」
「不破尚・・・に・・・好きだと言われました・・・」
「・・・そう・・・」
「そして、キスを、されました」
「・・・うん」
「比べてみればって・・・随分前に敦賀さんが言ったのを、思い出しました」
「・・・・・・」
「でも、よく分からなかった。ただ、舌を、噛んでやりました」
「くすくす・・・君にキスの仕方を教えておいて良かったかな・・・」
「でも敦賀さんの前でしか泣かないっていう約束は、破りました・・・。泣いてしまったんです」
「・・・・何故?まさか何か、もっと嫌がることを・・・・」
「いえ、・・・・彼は芸能界を休んで・・・イギリスにピアノの為に留学すると言っていました・・・。ずっと、傍にいてくれたから・・・・やっぱり涙が止まらなくて・・・ごめんなさい」
「イギリス、に・・・?」
「敦賀さんが師事していらした先生に付くと・・・そう言っていました」
「・・・・・・・・」
じっと天井を見続けている蓮に、キョーコは口付けを一つ落とす。キョーコは蓮の指先を探して、握った。
「敦賀さんと同じ、コンクールを、受けるんだそうです」
「そう・・・・・・」
「彼の父親は、敦賀さんと同じ、コンクールで、優勝しましたから・・・・」
そう、コーンも、ショータローも優勝すると・・・「約束」した「コンクール」。
蓮は、じっとキョーコの目を見つめたまま。
小さく「あ・・・・」と声を発するだけで、その後を続ける事は無かった。
――やっぱり、私が「そう」だと、気づいて、いたのね・・・・
キョーコは、先程とは違って、どうしようもない不安にかられる事はなく、ふふっと、穏やかな笑みが漏れた。
――私が、コーン敦賀さんを同時に愛しているように、キョーコとして、キョーコちゃんとして、丸ごと愛してくれているのは、敦賀さんも一緒なのかな・・・・そう、自惚れてみてもいいかな・・・・。
キョーコは、そっと蓮の唇を吸った。
蓮の指が、弱くキョーコの手を握る。
少し戸惑っている。迷っている。そんな指先だった。
「あの、だから・・・あともう一つ謝らなきゃ・・・」
「うん、それは聞かないよ・・・・もう、寝よう」
「なぜです・・・・・?」
「くすくす、さあね、君が・・・言うべき時が満ちたら、もう一度、その謝罪は聞くよ・・・」
『君が言うべき時が満ちたら』
全てを分かって言葉を発した蓮の指先は、もう迷うことなく、キョーコの手のひらを撫でていた。
キョーコの瞳から、ぱたぱたと自然に落ちた涙に、蓮は苦笑した。
「敦賀さん・・・・・」
「君がオレのために泣くのは、可愛いからいいけど、ね・・・・」
蓮はすっとキョーコの頬に手を置き、涙を拭った。
その手でネックレスに触れて、口付ける。
「オレの心なら、君に。さっき、レオはね、オレの全ては君次第だ、と言ったんだよ。レオもオレの事情全て知ってる。君がこのネックレスをして、キョーコだと名乗ったのが本当に嬉しかったらしい」
「敦賀さん・・・・」
『お花屋さん』は、最初から知っていたのだ。
――だから、ずっと、私に優しかったの・・・・。
二人は、互いを抱き合うようにして、眠った。
それはまるで、懺悔を終えて、神に全てを許された神の子のように、安らかな眠りだった。
第二楽章 了
2006.12.10