蓮は東京の部屋で一人、夜景を見下ろしていた。
昔とそんなに変わらない風景、変わらない家具。
変わったのは、自分と、そこに住む人間。
もう一人の住人は、今、仕事で九州に行き、帰って来るのは明日になると言っていた。
一人で風景をぼんやりと見おろしていると、昔を少し思い出す。
ベッドの横にあるサイドボードの引き出しを開ければ、キョーコが大事にしているティアラと、指輪と、クロスのペンダントの箱がしまってある。
昔一人で東京に来た時、キョーコを置いてアメリカに渡った時、そして、今。いつもこの場所から全てが始まっていた気がする。
手元のグラスが開いて、新しく入れようと部屋を出たときに、玄関の開く音がした。
「おや」
帰ったキョーコが蓮を見つけて、満面の笑みで寄ってくる。
「おかえり」
「ただいま~」
「早かったね。明日だと思っていたんだけど」
「明日の予定だったんだけど、早く帰れたから」
「おつかれさま」
キョーコの持っている重そうな荷物を蓮は受け取ると、リビングに向かう。
先にシャワーを浴びると言って、キョーコは部屋を出て行った。
蓮は、当初の通り開いたグラスをもう一度氷で埋めて、そして、キョーコのために、軽い酒を作った。
作り終わる頃にはホカホカのキョーコが戻ってきて、蓮に渡された飲み物を美味しそうに口にした。
今では、昔のように覚えていない事はないし、覚えていないほど一緒に飲み明かしたとしても、深く愛を告げあうだけで、これといって困る事は無い。
そういえば思い出したの、と言ったキョーコは、一度部屋から出て行き、古い携帯電話を持ってきた。
「懐かしい携帯だね」
「今なら、聞けるかと思って・・・・」
記念にとってあった携帯電話に、一体蓮がどんなメッセージを残したのか、キョーコはようやく聞こうと思う事ができた。
『最上さん、おはよう。身体の調子はどう?オレはこれからアメリカに行くけど、いつか会いに来て。・・・じゃあ、また』
とだけ、入っていた。
「は、早く聞いておけばよかった・・・・」
と、キョーコはがっかりしたように蓮に言った。
「聞いてなかったの?」
「だ、だって・・・その時は、声を聞いてしまったら、甘えたくて、自分一人では立てなくなってしまうって思っていたから・・・・」
「もし、伝言を聞いていたら、もっと早く来てくれた?」
「わからない・・・あの時の私がどう思ったかは・・・」
キョーコは蓮の手を取って、まっすぐに目を向けた。
「最後の悪あがきの伝言だったから、聞いてなかったのならそれでもいいんだけど・・・。それにしたって君さ、オレを迎えに来るの、時間がかかったよね・・・」
蓮は腕の中のキョーコにそう言った。
うまく理解できないキョーコは、目をしばたいている。
「え?何?何の話?」
「酔った君が約束したんだよ?『待ってて、すぐに迎えにいくから』って・・・」
蓮はキョーコを腕に抱きしめると、鎖骨に顔をうずめる。
蓮が半分は冗談で、半分は本気で伝えた言葉に、キョーコは、少しだけむくれて、
「だって、覚えていないんだもの!」
と、正当論を告げた。
「ずるい」
「・・・覚えてない方が、イヤだもの。蓮が、何を言ってくれていたのか、覚えていないなんて・・・」
「酔った君はいつも、オレを好きだって言ってた。普段一切言ってくれなかったのに・・・」
蓮はくすくす、と笑いながらそう言った。
キョーコはしばらく考えながら黙っていて、蓮の手に自分の手を重ねて言った。
「酔っていた私は、今の私や普段の私と違う?蓮がもっと好きな女の子になっていた?その時の方が、酔っていても抱いてしまいたいと思ってくれたほど、好きだったの・・・?」
「オレに素直にわがままを言う所だけは全然違うけど、根本的なところは全く同じだよ」
「わたし、素直じゃ、ない?」
「今は、同じに見える。あの頃の君が、そのまま君の中に見えるよ」
蓮が背中から強く抱きしめると、「やめて」と笑いながらキョーコは抵抗をして、
「蓮は、全然違う。あの頃、ちっとも本当の気持ち、私には見せてくれなかったもの。よく思い出せば、わたし、いつも、蓮の事を心配してた。今は、いつでも教えてくれるから、嬉しい」
「・・・・そうかな?」
「うん」
二人はくすくす笑う。
キョーコの胸元のクロスが、ゆらゆらと揺れる。
「酔った君は、オレに最も甘くて残酷な記憶だけを残してくれた。君は全く覚えていない事を分かっていて、オレは君を腕にした。この五年オレはどんなに罪悪感に苛まれたか」
禁断の果実を口にした罪と罰は、それは大きく心にのしかかって、その後アメリカで恋愛などする気にもならなかったよ、と、蓮はキョーコの鎖骨に呟いた。
キョーコは蓮の頬を何度も撫でて、
「・・・・ごめんなさい。本当は、蓮を、好きだった、から」
「酔った君はよく言ってくれたよ?「キスして」って・・・」
蓮はキョーコの唇にキスをする。
キョーコは何度受け入れてもまだ照れる。
苦しくて、ふっ、と、息を小さく吐き出した。
「酔った君が一番オレにねだった事だよ」
キョーコは真っ赤になって、
「う、うそばっかり!そうやって、私をだますんでしょう?」
と蓮の胸を押した。
蓮は、「嘘じゃないよ」と、真面目な顔でそう言って、
「どれだけそれが嬉しくて残酷な言葉だったか・・・君には分からないと思うけど」
と、少しだけ悲しそうに言った。
思い出せないキョーコは、蓮の表情につられて切なくなる。
何度か蓮はキョーコに口付けて、
「やわらかくて、甘くて、愛しくて・・・オレだけが覚えてる、残酷な、記憶」
と、また数度口付けた。
だから、キョーコも、蓮を抱きしめなおして、
「はずかしい事言うの、照れるから、苦手で」と前置きして、
「・・・・キスして・・・」
と、キョーコは蓮に素直に言いなおした。
「もっと言って」
蓮はキョーコの唇に何度も口付ける。
蓮の中に眠る強い愛情。心が、身体が欲する真実。
解き放ってしまいたいと願う。
「キスして」
「もっと」
意識の無いキョーコが、蓮に最も伝えた言葉。
「キスして・・・」
今度はもう互いに二度と忘れないように、伝えなければ。
記憶の中に、残しておきたい。
同じ時間を、身体に刻み込む。
蓮はキョーコに言った。
「キョーコ、キスして」
「れん・・・好き・・・」
「ん・・・・」
キョーコが必死で蓮の身体を手繰り寄せる。
何度分け合っても、何度しても、甘く切ない気持ちになるのはどうしてだろう。
*****
二人は身体の奥深くまで、リラックスしきっていた。
蓮はキョーコを抱きしめる。
抱きしめてあげる、といった感じだろうか・・・。
蓮はキョーコの肌を撫でながら、自分の身体の上に乗せた。
キョーコは、蓮の肌の上で、その全身を預けた。
「あったかい・・・・」
蓮の肌に指を滑らせながら、キョーコはつぶやいた。
心からリラックスしたキョーコの表情が、蓮の目の中に写る。
「オレのしあわせの意味は、きっと、こんな感じ・・・・」
「うん・・・・・先生に、伝えたいね・・・・」
自然と二人の唇と舌は再び絡み始めた。
ゆっくりとした動作で。
長く、深く。
自然に離れて、キョーコは蓮の肩先に顔を埋めた。
蓮はキョーコの髪に指を通し、後頭部を撫でた。
「キョーコ」
「なあに?」
蓮は呼びかけて、でも、それ以上は何も言わなかった。
腕の中のキョーコを強く抱きしめ、頭に頬を寄せた。
『オレが抱きしめて・・・幸せにしてあげたかった・・・』
キョーコは、蓮がかつて言った言葉を、ふいに思い出した。
キョーコは、強く抱きしめ続ける蓮に、強く甘えた。
蓮はやわらかな肌の重みを感じながら、頬を寄せる。
「れん・・・お願い、キスして・・・」
「キョーコ・・・?」
蓮がそっと微笑んだ。
無意識の中を漂い出した二人は、何度もキスをして寄り添い、身体の中に眠る記憶を全て掘り起こしたいと、願った。
2009.11.24
2019.07.07 本用書き下ろしより掲載