バラの融点25

『Under The Rose エピローグ』


「ママー!!ママー!!ママー!!」

小さな男の子が外で懸命に母を呼んでいた。

「なあに~?」

窓から顔を出して、母親が声のするほうに声をかける。
ママ!ともう一度呼んだ男の子は、

「今年も咲いたよ!パパのバラっ!!」

と、嬉しそうに遠くからそう言った。

「そう!それはよかったわね。一輪、切ってきてくれる?飾るから」
「わかったよ!」
「ちゃんとバラに、ありがとう、って言うのよー?」
「わかってるよ!ママ!!」


僕の所に咲いてくれてありがと、と言いながら、男の子は咲きたての一輪を切って、走って部屋に戻ってくる。手を洗い、うがいをして、リビングに駆け込んだ男の子は、水を汲んだ花瓶を家族の写真立ての横に置いて、そのバラを背伸びをして挿して、飾った。


「パパ、ママのためのバラが今年も咲いたよ!すごく綺麗だよ!」


と、男の子はその写真に言ったあと、「ママ、いつもの所に飾っておいたよ!」と言って、母のもとに駆け寄り、食事の用意を続ける母親に抱きついた。


「ありがとう、きっとパパも喜ぶわ。さぁ、食事にしましょう。パパのバラが咲いたから、パパの大好きなスープも作ったの」
「うん!いただきまーす」

食卓には母親の大好きな赤いバラが並んでいて、そのスープの黄金色をいっそう鮮やかに引き立てていた。



(FIN)


******



オーケーが出されて、全ての場面が撮り終わり、クランクアップの大きなバラの花束を受け取ったキョーコは、嬉しそうに涙を浮かべて全員に向かって一礼して、ありがとうございました、と言った。

ソラがキョーコに、「また遊んでね!」と言って駆け寄った。
横にいた蓮が、お疲れ様、とキョーコに握手を求めた。

「ありがとうございました」

手を握ったキョーコも、ほっとした表情を浮かべる。

撮影時間が決まっている為か、あっという間にスタッフの手によって、打ち上げの為の軽食がバラが咲き誇る庭に持ち出されて、各々自由に食事を始めようと準備が進んでいる。


しかし、蓮もキョーコも少しその喧騒には混じりたくなく思えて、静かに壁にもたれかかり、終わった余韻に浸っていた。


ソラと美玲の通る笑い声が遠くから聞こえていた。


「敦賀さん」
「ん?」
「監督は、『セージがどうして画面に出てこないか、好きに想像して演じて欲しい』と言いました。敦賀さんはどうして、最後、セージが画面に出てこないのだと・・・思いますか?」
「・・・・・君はどうしてだと思う?」
「ふふ、あまりいい想像とはいえない想像もしました。でもできれば、私は、恋愛映画を見た後は明るく終わりたくて、仕事で海外に行っている事にしておこうと思って、演じたのですけど・・・・」
「そうだね、そうだと良いね」
「先生、その辺しっかり書かれなかったから・・・」
「・・・本当は、オレもあまりいい方の想像をしなかった。花と人を、生きようとしているものとして括った物語としては、多分そっちの方が綺麗にまとまって良かったはずだったのに・・・。でも・・・そうなると、カエデがね、寂しくて寂しくて、すごく泣くだろうと思って、きっと、先生も思い入れが強くなってしまって書けなかったんだと思うよ・・・。映画の脚本は原作に沿わなくてもいいし、原作で描かなかった分映画で描いて答えとしても良かったのに、それでも書けなかった事を考えても、その辺きっと作家としてきっと失格なんだよね・・・久遠先生には悪いけど・・・・」

蓮は目を伏せて、少しだけ笑った。

「書かないで下さって、私は良かったと思ってます・・・委ねてもらえて・・・」

キョーコも目を伏せて、少しだけ、笑った。


「敦賀さーん、キョーコちゃ~ん!早く食べようよー!!」


遠くからソラと美玲が、二人に向かって手を振っていた。

「いまいくよ~!」

キョーコが手を口に当てて、ソラに答えた。

「敦賀さん、お昼、食べに行きましょう?おなかすいちゃいました」
「そうだね、この庭ももう、最後だね。あっという間だった」
「記念にお庭のバラ、一輪貰ったら、怒られるでしょうか?」
「あとで一緒にお願いしてみよう?」
「・・・心強いです」

蓮がキョーコの背中を押して、二人は庭の中央に向かって歩き出した。




******



数ヵ月後。


「だから・・・もう、忘れようと思って忘れたんです。彼は不思議な魅力を持っているので、一度触れてしまうと、つい、もっと、と、思ってしまって甘えてしまいましたけど・・・・」

キョーコは工藤仁に、今日までの一連の話を全て告白した。
それが誰か、とか、映画の話など全て伏せていた。相手が俳優、しかも、共演中で、監督に恋人のようになりなさい、と、言われた事も知らせていない。

が、感の良い工藤仁の事だから、ある程度、人物まで特定できているかもしれない。どこまで察しがついているかは分からないが、相手が蓮という事だけでなく、もしかしたら、敦賀蓮と久遠レンが同一人物である事も、言葉の端々から読み取ってしまったかもしれない。元々工藤仁は久遠レンについて、とても若い男性だと思っていたのだから・・・。


「それでいいの?」
「いいとか、悪いとかの選択権は私には無いです、最初から」
「どうして」
「相手は、私でなくても、百人女性がいて、百人が、彼に『愛してる』と、冗談でも囁かれたら、好きにならない人がいないだろうから・・・彼が選ぶ側で、私は選ぶ側にありません」
「・・・・うーん・・・・・?それって、彼の本当の姿・・・?彼が望んだ姿・・・?一般論とか、イメージ、とかではなくて・・・・?といっても、恋をしたくない君が、恋をして、愛していると囁かれただけで身体まで許してしまうほど魅力的なのだから、引け目を感じるのも分からなくもない・・・かなあ・・・?」

工藤仁はブツブツ独り言をつぶやき、キョーコは、それに、イエスともノーとも答えなかった。

「それに・・・本当の意味では私をどうとも思っていないと思うんです」
「なぜ?」
「私が・・・お話したとおり、恋をしようと思っていない事を相手もよく知っていたから・・・。だから、抱きしめてみたり、口付けてみたり、愛してるなんて、冗談で囁けたんです。もし普通の女の子にそんな事をしたら、きっと、勘違いをしている所です。彼にとって私は、珍しくからかって遊んでも本気にならない、とてもいい『人形』だったはずなのに、人形が無駄に意思を持ってしまって・・・。きっと今、仕事に打ち込みたい彼にとって、そういった感情は、ただの迷惑と面倒でしかなかったのに・・・・。」

少し笑みを浮かべながら、仕方が無い事、といった表情を浮かべるキョーコに、工藤仁は全く何も相槌すら打てないでいた。

「だから、私がダダをこねて、抱いて欲しいと卑怯に泣いてお願いした時も、とても、困った顔をしていました。彼にとっては、どんなに私に愛していると囁いたとしても、あくまで人形は人形、定められた一定の時間が過ぎれば、それもなかった事になったはずだったんです、本当は・・・」
「・・・・彼に弁明する機会もないだろうから、男として少しだけ、彼を助けようか・・・」
「・・・・なんでしょう?」
「彼は、君をとても大事に・・・すごく大切に抱いたんじゃない?」
「・・・・わかりません、初めてだったし・・・・」
「君の事を本当にただのおもちゃか人形か、自分の都合の良いように扱える女の子だと思っていたなら、君に触れるのにそんなに時間をかけたり、ためらったりしなかったと思う。もっと早く触れただろうし、それで君が拒めば『さよなら』すればいい。それに君から言って来てくれたなら、手間が省けたラッキーとばかりにためらわずに触れるんじゃないかな・・・。だから、君が、そういう事にしておきたいんじゃなくて?愛して、と、本当は言いたいけれど、言って困られたり拒絶されるぐらいなら、最初から無いものとして、自分を慰めておきたいんじゃなくて?」

キョーコは思い出したくないかのようにうつむき、その時の感覚を思い出したくなくて、膝を抱えた。

傍にいたいとか甘えたいとか、癒してあげたいとか癒されたいとか、優しさとか、確かに、二人で抱き合い口付けた時、一瞬だけ、心が満たされた感覚を覚えた。それを仮に愛情と呼ぶとしても、本当のその意味を知らないのに、たったそれだけの事で「愛してる」などと軽々しく口にはできなかった。


「私の友人が、前に言いました。血縁関係の無い男と女の間には、絶対に友情は成り立たないと」
「へぇ」
「必ず、そこには、恋愛感情か、利用したい人間と、利用される人間がいるだけだ、と」
「まあ、オレと君との関係は必ず後者だ。オレが君を呼んだ」
「私は、そんな事は無いと、それを言った友人に反論しました。しかも彼は、後者だったのに、私は、恋愛感情のようなものにいつの間にか変わっていて・・・だから、どこまでいっても、平行線です。私は前者、彼は後者。私が、工藤先生に恋愛感情を抱いたとしても、平行線なのと、全く同じです」
「・・・分からないよ?」
「ええっ・・・」
「大丈夫だよ・・・。多分一時は良くても、数年後はさよならだと思うね・・・きっと歳の差に負ける」

工藤仁は冗談めかして手を振り、想像上でも少し照れたのか、鼻を数度かいてから、紅茶を口にした。

「・・・・・だから、私は、彼を利用することにして、これ以上恋をしないで済むと思って、無理やりお願いして、恋愛のプロセスを教えてもらいました」
「うん。で、幸せになったんだろう?」
「・・・・信じられないぐらい優しくて、ドキドキして、言った事も無い言葉を口にして、幸せな言葉の全てを覚えて・・・。だからもう、これ以上こんな気持ちに振り回されなくて済みそうです」
「あはは、逆効果だ」
「愛なんてもう十分なので、ラブミー部、一生出られそうにないです」
「でも、オレはこれを作品にするって事、覚えてる?」
「・・・・・」
「もちろん君だとは分からないけど、社長には君への仕事の依頼を直接お願いしたから」
「・・・・分かって、しまうかもしれませんね」
「久遠先生にも、ね」
「・・・・・・・・」

キョーコは言葉を切った後、しばらくして、恥ずかしいですね、と少しだけ微笑んだ。


「そうだ、ご本、ありがとうございました」
「もう読んだんだ」
「すぐ読めましたから」
「どうだった?」
「・・・・・私にはよく分かりませんでした。それが良いとも悪いとも・・・。先生は良くない方法とはいえ、少しだけ下を見て自分は幸せだと感じる方法もある、とおっしゃいましたけど、それも、この本の中で、誰が幸せで、誰が幸せではなくて、私は今、幸せなのか、幸せではないのか、よく分からなかったんです。彼女たちが本当にいるとしても、いないとしても、彼女たちは、彼女達なりに、ただ必死だっただけですから・・・・。ただ、自分なら自分の性格からはその選択をしなかっただろう、と、思うだけでした。幸せの意味も、実をいうと、何が幸せか、よく分からなくて・・・。私は、今、自由に自分のために生きられるのがとても幸せだと思っているのですけど、私の話を先生が書かれるとして、誰かが手に取ったら、やはり、この本の中の女の子たちみたいに、私は、可哀想な人間だと、誰かのなぐさめや哀れみの対象になるのかもしれませんし・・・・。親ともうまくいかず、友達にも恵まれず、好きになった男に尽くし続けて捨てられて、今は一人で、恋しようと思ってもうまく出来ない子で、と・・・。もちろん自分で自分を可哀想なんてちっとも思ってないですけど」

キョーコは、ふふ、と笑って、手元の紅茶を口に含んだ。

「・・・・例え方もオレのチョイスも悪かったね。最初に印象を吹き込むべきじゃなかった。次は、もっと他の本にしよう。もちろん、君に興味があるといったのは、そういった君を上から見下ろした意味の事じゃないよ。どうして今の君が出来上がったのか、その過程があまりない事で、話としてリアルで面白いと思ったんだ。それは信じて欲しい」

工藤仁はとても真剣にキョーコに告げて、キョーコは頷き、もちろんです、と答えた。


「工藤先生の他の作品も読みたいです。何か、また貸してくださいね?」
「・・・ありがとう」
「あ、嘘です、買います!すみません」
「いいよ、うちにあるのを読んでくれれば・・・」

工藤仁はにわかに笑みを浮かべた。


工藤仁は、久遠レンが作家としてどうしてキョーコにそこまで思い入れたのか、少しだけ気持ちを理解した気がした。

じっと、話に耳を傾けていると、ふと、気付くことがある。
いつの間にか、キョーコのペースに巻き込まれてしまう。
ただ取材として聞いているはずが、その言葉に飾りも嘘も無いから、それが心地よくなって、もう少し聞いていたい様な気になってしまう。
その不思議な世界を、覗いてみたくなってしまう。
当初のキョーコ自身の経歴への興味もさる事ながら、人として触れていたくなる。


久遠レンが、童話が好きだと言ったキョーコのために、童話調の優しい語り口の作品まで書いてしまうのは、分かるような気がした。


「久遠先生は最近元気?」
「・・・最近三ヶ月ぐらいお会いしていませんので・・・。でも元気だと思います」
「そうなんだ?最近は君にしか原稿渡さないって、社内でも有名だったみたいだけど・・・」
「今は私、お役御免なんです。工藤先生のお仕事に重点的に就く事になったので、二つ同時はきついだろうって」
「・・・・・・少しだけ噂を聞いたよ。久遠先生が、この間一作だけ新作を書いた後、しばらく書けそうにないって言って、長期の休暇を求めたって・・・」
「え・・・?そうなんですか?その新作も私知らなくて、どこに載ったのか・・・。読んでいませんから・・・新刊ですか?」
「よく分からないけど。編集から聞いた噂だからね。君が取りにいけないからかな?」
「分かりません、私は何も、伺っていないんです」
「そっか・・・・。アムアムで一年間、小説の連載を依頼しようとしていた所だったらしいよ。この間の作品の受けが良かったらしい。よかったね、『キョーコちゃん』」
「・・・・ふふ・・・・」
「今度聞いてみるといい。もし何なら、しばらくオレの所休んで、久遠先生の所に顔を出してみたら?意外とすぐに復活するかもしれない」
「ないですないです、私ごときでっ。先生がお決めになられた事ですからっ」
「そうかな」


工藤仁は、時計を見上げて、「そろそろおしまいにしようか」と言って、立ち上がった。
キョーコはいつもどおり玄関まで送り出されて、頭を下げた。


帰る間中、頭の中は、久しぶりに蓮との事だった。忘れたつもりだったし、ようやく蓮の写真を見ても、夢だったのだと思えるようになったのに。そのときの感情をさらってしまうと、あっという間に、映画を撮影していた頃の感情が蘇る。カエデとしてセージを好きだったはず、でも、蓮を知った晩は、「レン」と「キョーコ」と呼び合い、愛し合った。それがそもそもの間違いだったと、後から確かに、後悔をした。

今後、何かの役どころで恋愛を、もちろんするだろう。その時、相手にこんなに思い入れてしまうだろうか?

恋愛の事で頭をいっぱいにするなど、どうかしてる、と、思っても、その晩だけは、それを止める事はできなかった。


だるまやの女将が、「最近はうちに帰って来るんだねえ」と軽口を叩いたが、キョーコはそれを真に受け止めて、「お仕事も終わりましたから」、と、受け答えて、いつもどおり、配膳の仕事や水洗いの仕事を手伝っていた。


「仕事が手に付かないなら、もう、あがっていいぞ」


と、背後から声がして、振り向けば大将が立っていた。
水洗いをしていたはずなのに、完全に手が止まっていて、水だけが流れ落ちていた。

「疲れてるんだろう。ここはもういい」
「ごめんなさいっ、もったいないことをして・・・」


仕事中に恋愛の事を頭に浮かべてしまって、と、ひどくキョーコは反省しながら布団にもぐりこんだ。コーンの形をした抱き枕を強く抱きしめる。同じものを自分のためにも作った。その背中には、幾度と無く涙が染み込んでいた。もう、飛べなくなってしまったかも、と思えるほどに・・・。


工藤仁に話をして、久しぶりに蓮との数ヶ月間の事を思い出して、再び何か切なくて、涙が出そうになる。失恋を覚えた傷口はふさがったように思えて、全然、中の傷は癒えていない。かさぶたがはがれると、蓮とのキスが、愛し合った感情が、そして、愛し合った感覚までも、生々しく蘇ってしまう。時間がたてば立つほど、記憶は曖昧になり、過去は都合よく美化されて、蓮を愛しく思って抱き合った時の気持ちだけが強く残っている。

いつもならこんな弱い感情、頭の中からすぐに追い払えたけれども、工藤仁に認めたくなかっただけなのではないかと言われて、それが傷口を深く抉った。

蓮はもう、随分と子供っぽい子だったと笑いながら、残されたクマの抱き枕やコーンの抱き枕を捨てたに違いない。あんなものがあっては、蓮の本当の恋人に愛想を付かされてしまうだけだ。

そして、『人形を捨ててしまえば』、次の女優か、本当の恋人がその部屋におさまっているだろう。それを糧に次回作を書いているか、俳優業に専念するだろう。惚れた腫れたで修羅場などができる、自由に自分の気持ちを誰かにぶつけられる人をとてもうらやましく思えた。

どうすれば一番正しかったの?本当の気持ちを、言えばよかったの・・・?と、キョーコはコーンの姿をした人形の背中に涙声でつぶやいた。

答えは、返ってこなかった。


















2010.04.25