『Under The Rose』
「ちょっと、ちょっとカエデ」
と、花屋仲間のマキがカエデを呼んだ。
こそこそこそ、と小声で囁く。
「さっきから、バラを持ったすごくいい男が店の前に立ってるんだけど。見てきなよ」
「・・・・・?」
カエデは覗きに行って、息を飲み、店の中に無言で戻ってきた。
「ね?ね?いたでしょ?うちで売ってない種類のバラなんだけど。いい宣伝になってくれてるみたい。さっきからお客さんすごく入ってくれて。もうお店閉めたいのに・・・」
「・・・・・・・知り合い」
「え?カエデの?」
「うん。お友達」
「彼じゃないの?」
「そうだったような時も、あったけど」
「じゃあ、どう考えてもカエデに会いに来てるに決まってる」
「・・・・・・・・・」
退院したのは聞いた。退院する二日前に。急いで荷物を全て引き上げて、一人暮らしをする部屋に戻った。
それから二週間が過ぎていた。どうなったのか、どうだったのか、これからどうするのか、など、何も、聞かなかった。ただ、退院する、とだけ。でも、退院できるという事は、少なくとも生きているということ。それだけで、涙が出るほど嬉しかった。
一度だけ、どうしても我慢が出来なくなって、姿を見るだけと決めて、ものすごい変装をして、カエデは病院を見に行った。
カエデがセージの部屋を覗くと、セージが外を眺めている姿が目に入った。
少しやせたような気がする。
それだけで声をかけたくて、涙が零れてしまいそうになって、同じ部屋に入ろうとした人にバラの花束を渡して、「貰ってください」、と言って、驚く患者をよそに、走って逃げた。
廊下で看護婦にものすごい剣幕で走らないで、と、注意されたけれども、気付いた時には病院の正門で、短距離走でも終えたかのように息を切らしていた。
あわてて渡したから、もしかしたら、声だけでセージは気付いたかもしれなかった。もしくは、バラを見て、少し特殊だと、庭の自分のバラだと気付いたかもしれない。
だから、一度も店に遊びに来た事が無かったのに、突然会いに来たのだろうか。
「店、閉めとくから。もう時間だし、先あがっていいよ、カエデ」
「え、でも」
「行って来なよ。さっきからカエデそわそわしてる。会いたかったんじゃないの?」
「・・・・・・ごめん、マキ、じゃあ」
「今度マキシムのロールケーキ、カエデのおごりだからね~。話聞かせてよね!」
「わかってる!」
カエデはエプロンをたたんでロッカーに入れて、バッグをつかみ、タイムカードを通した。
裏口から出て、正面に出ると、セージはぼんやりと壁にもたれかかっていた。
「そんなトコに立っていられると、うちより豪華なバラで、営業妨害なんだけど」
「カエデ・・・」
セージはカエデの姿を見るなり、微笑み、抱きしめた。
「カエデ、カエデ・・・会いたかった」
「ちょっ・・・ここ、店の前!」
カエデが拒否をしなければこのままキスでもされそうだった。遠慮なくドラマを演じる二人を、視線に入れないよう避けるようにして歩いていく通行人に、マキが驚いた顔をして遠くから見ている姿が目に入る。
「セージ、うち、ここから近いから。寄って?お願い、だから、離して」
「うん」
カエデはセージの腕を引っ張り、歩くように促した。店から少し離れると、その腕を離したが、今度はセージがカエデの手を取って、握った。
「こんな事、今まで、した事も、する機会も無かったね」
「うん・・・・」
デートというデートなんて、まずしたことが無かった。
手をつないで街中を歩く事もした事が無い。
セージがカエデの部屋に来た事も無い。
ただ、あの庭と部屋だけが、二人の居場所だった。
部屋に着くと、セージはカエデをすぐに抱きしめて、またカエデに「手洗いうがい!」と怒られた。カエデは冷蔵庫から冷えた麦茶をグラスに入れて、テーブルに置いた。
「カエデの部屋に来たの、初めてだね」
「うん」
「バラが、ある。あれは、オレの庭の?」
「うん・・・初めて会った時にくれたのと同じバラ。もう、お別れしなきゃいけないって思って、最後に、一輪だけ貰ったの」
「ミカミが昔の事とか、君を妹だと言ったみたいだね。オレとミカミとは、とても昔のことだし、彼女はずっとオレを思ってくれていたみたいだけど・・・。君が勘違いをして、オレとミカミのために来られなくなったに違いないと思って・・・。ミカミとはおかげで少し言い合いをしたよ。オレたちには、オレたち二人だけのゆっくりした時間の進み方があるんだって・・・。それにね、彼女もオレも、バラを育てる事に長けているけど、心から喜ぶ君の姿がないと、何も意味がないんだよ。誤解を解きに会いに行こうと思っていたら、倒れてしまったから・・・」
もう、本当によくなったの?と、カエデは聞きたくて、でも、それは喉をつかえて出てこなかった。
「ミカミさん・・・・」
「うん」
「今、どうしてる?アシスタント、辞めてしまった?」
「・・・・海外に行くよ。元々オレと彼女が呼ばれていたんだけど。オレは入院してしまったから・・・彼女だけが先に行く事になった」
「いつか、セージも行く?」
「多分」
「そっか」
静かに目を伏せたカエデを、セージは抱きしめる。
腕の中で、カエデが、身をこわばらせた。
「・・・・カエデが、入院する前よりもずっと前から、オレの目の届かない場所の庭の手入れをしてくれてたって父に聞いたよ。それに、オレがハタチであの家へ戻る前から、芝の手入れをしてくれてたんだって・・・」
「セージには黙っててって、言ったのに・・・・」
「どうして」
「だって・・・」
「帰ってきて、バラが全部生きていたから、どうしてだろうって思った。雑草も無かったし・・・。ミカミは鍵を持っていないから、庭に入れるはずが無かったし、だから、父に聞いた。君が今まで全部こっそりとやってくれてたって・・・」
「友達だもの・・・。それに、バラの事、少しだけ覚えられたの」
「ありがとう・・・」
セージはカエデに額を寄せて、言った。
「好きだよ」
「うん・・・わたしも・・・」
「オレは、怖くない?」
「・・・・た、多分・・・・」
「少しでもいやだったり気分が悪くなったら、言って」
「だって、病み上がりなのに・・・」
「大丈夫、もう治ったよ・・・」
「本当に?うそじゃない?」
「うん」
「あと、ここ、セージの部屋と違って・・・壁が・・・薄いから、あの・・・」
「だから、大丈夫だよ」
「なにが大丈夫なのっ・・・」
「もう、黙って・・・。いつものオレのバラのお姫様に、なって」
セージはカエデを抱きしめながら、キスを繰り返し、カエデは、何度も涙を浮かべた。
二人で入るには小さすぎるベッドに身を寄せた。
「あのね」
と、カエデはセージの腕の中で言った。
セージの首筋に顔を埋めると、セージの肌のにおいがする。
「病名を聞くのが怖かったの。だから、聞いてない」
「・・・無理しすぎたみたいだよ・・・病名は知らなくていい、大丈夫だから」
「ええっ・・・もう、死んじゃうのかと思って、夜も眠れなかったのに」
「くすくす・・・残念・・・もう少し、生きていていいみたいだよ」
「・・・いなくなっちゃ、やだ」
「うん・・・」
「・・・一人で、いなくならないで・・・」
カエデからセージの唇に何度も口付けて、キスをねだる。
「オレが交配させた新しいバラが咲かなかったのが・・・とてもショックで・・・そのバラがやっと咲いたから、今日は君に渡しに来たんだ」
「咲いたの?」
「咲いたよ」
セージは腕を伸ばしてそのバラを取って、カエデに渡す。
「これが咲いたら、少しはけじめがつけられるかなって・・・。君が欲しいと・・・結婚をしようって・・・伝えようと思ってた。だから、どうしても成功させたくて・・・少しムリがたたったけど、今年は咲いてくれてよかった。研究所のバラも咲いたけど、君が庭をよくしておいてくれたおかげで、オレの庭のも咲いたよ。これはオレたちの庭の」
「・・・・きれい。ありがとう。バラの新種って、本当に彗星を見つけるみたいに、大変なことなんでしょう?もう、何千何万って種類が出ているから・・・」
「そうだね。でも・・・おかげで名前、好きなのを付けられるんだよ。よく、贈りたい相手の名前をつける。だから・・・カエデ、と付けようかと思って・・・」
「ええっ、そんな。プリンセスローザとか、クィーンローザとかがいいっ」
「・・・・・・・本当に?」
「うん、バラのお姫様って、セージが呼んでくれる名前がいい。カエデじゃ、秋の花みたいだもの」
「じゃあどっちかにしておくよ」
「そしたら、私のお花屋さんに、まず置かせてね?」
カエデの持っているバラをセージは手から取ると、それを床においた。
そして、上掛けを頭から被り、セージはカエデを隠した。
*****
カエデを隠した上掛けの中で、蓮はキョーコの頬の傷を指で撫でてから、そっとキョーコにキスをした。半分涙を浮かべたままのキョーコは、蓮の舌先を甘く噛んで引き寄せ、それに自ら応えた。
しばらくの間、終わりを告げる声が無かった。
それが聞こえるまで二人は隠れてキスを続けていた。
キョーコは完全にカエデになりすぎていて、セージが愛しくて、とても離れがたかった。上掛けを被ったあと、中で少し動いて、とだけ監督が指示をしてはいたが、セージの首に腕を回す時にこすれた音が、がさがさ、と、上掛けに伝わった。
オーケーの声が聞こえて、蓮が「終わったよ」と声をかけても、キョーコはぼんやりとするだけで、蓮がキョーコを頭から隠すように上掛けで隠し、社が蓮に持ち寄ったシャツを羽織ってから、再び、顔だけ出るように上掛けをずらして、覗き込んだ。
「はい、これ」
蓮からバスローブを内側に渡されて、キョーコは我に返り、
「わぁっ・・・すみませんっ」
と声を上げた。
上掛けのなかで、ガサガサ、ゴソゴソ、とやりながらそれを何とか羽織り、一体どんな顔で周囲に迎えられるかと、真っ赤な顔で外に出ると、監督が冷静な顔をして外に立っていた。
「おつかれさん、良かったよ。綺麗に撮れたから安心して。よく逃げずに乗り切ったね」
「いえ、ありがとうございました」
「カエデの気持ち、今は、もう、理解できてるんだろう?」
「・・・・多分、できていると・・・思います」
「そう。それならいいんだ」
新開はにっこりと笑って、キョーコに自ら茶を渡すと、「あとはもう、二人はイメージカットが続くだけだから、少しは気持ちが楽だね」と言って、去っていった。
キョーコがベッドから立ち上がり、着替えに戻ろうとすると、美玲がついてきた。
誰もいない控え室に入ると、美玲は言った。
「キョーコちゃん、敦賀さんが好きなのね」
「ええっ、そんな事無いですよぉ。今はカエデだからそう思うだけですって。しかも共演者キラーの敦賀さんですよ?私がそんな変な感情を持っているように見えても当然ですって!お仕事の一つです」
「そうかしら?わたし、こういうの外したこと無いんだけどなぁ」
「気のせいです。だって、私、ラブミー部員ですよ?そういうの、どっかに置いてきてしまったみたいですから・・・」
「そう言うならそういう事にしておくけど、でも、もう、映画も終わるし、きちんと気持ち伝えてみたら?すごく苦しそうに見えるんだけど・・・それも、気持ちを飲み込んでしまうカエデだからかしら?」
「よく分かりませんけど、撮影が終わって、少しして、本当に好きだったかも、なんて思えたなら、伝えてみますね」
納得の行かなそうな美玲に、キョーコもそれだけは伝えた。
少し、他人事っぽかったかしら、と思いながら・・・。
着替えようとバスローブを脱ぐと、鏡には自分の生まれたままの姿が映る。そして、胸元の、誰も見えない心臓のある場所に、ほんの小さく、キョーコが気付くだけの赤いバラのような模様が目に入った。下着のワイヤーのあとにも思えそうな小さなそれが、いつ付いたのか覚えていない。撮影では身を任せた中で、蓮は普通の映画のように、静かに流れるようにキョーコを扱った。そうなると。
そして。蓮の演技は、一昨日の蓮とは全く違っていた。
そして、自分も・・・。
――本当は何も知らなくても、撮影は出来たって、敦賀さんはきっと気付いてるよね・・・・?
キョーコは真っ赤になって、あわてて着替えを済ませた。
2010.03.28