ある日、椹がキョーコを久しぶりに呼んだ。
「最上さん、すごく久遠先生に気に入ってもらってるんだって?聞いたよ~。出版部でも評判っていうか、誰も取りに行けないから、実際助かるって言ってたよ」
「ありがとうございます、良かったです」
キョーコはぺこり、と頭を下げる。
「で・・・さ。映画の撮影中、非常に申し訳ないんだけど。今度は工藤先生が直々に君に来て欲しいと仰っているらしいんだ」
「工藤先生?・・・・そういえば、先日、久遠先生のご担当さんが、工藤先生の所に行ってもらうかも、なんて仰っていましたけど・・・」
「さすがに映画に久遠先生に、今度は工藤先生じゃ・・・と、オレも断ろうと思ったんだけど・・・。うちの人間が君に取りに行ってくれるようお願いしているんじゃなくて、工藤先生が君を指名したらしいんだ。次の原稿を君に渡すから取りに来て欲しい、って」
「何故でしょう」
「さあ・・・空いている日に来て欲しい、時間はあらかじめ連絡くれればいつでもいい、って。で、先生が締め切り前に連絡してきたと思ったらそんな事だったらしい。もうどうやら上がっているみたいだから、どこか時間空けてくれない?」
「もちろん、今日でも明日でも構いません。空いてますから」
「じゃあ、そこでちょっと待っていてくれる?先生に連絡とって貰って、都合いい時間聞いてもらってくるから」
椹はキョーコに「blue」とかかれた工藤仁の文庫本をキョーコに渡し、「それあげるから、読んでみて」と言って出て行った。
キョーコは工藤仁という人物を詳しくは知らないが、とても人気のある作家だというのは本屋の平積みやポスターなどで見て知っている。blueも、もちろん見かけていた。
――あ、工藤先生のお仕事断れなかった・・・
先日蓮に断っていいと言われていたのを今更ながら思い出したが、断れるような雰囲気では無かった。もし自分が取りに行かなければ次の作品はこの世に出ないと言われたのも同然だった。
「最上さん、今日の夕方がいいって。五時に工藤先生のご自宅だそうだ。これ、先生の家の地図と先生の携帯番号。一応着く直前に一言連絡入れてあげてくれる?」
「わかりました」
「それから、これ、工藤先生に持っていく手土産にって」
紙袋と紙を手渡されて、キョーコは数ヶ月前に久遠先生のもとに訪ねに行った日のことを、少しだけ懐かしく思い出していた。
*****
四時四十五分。都内のマンション郡の一角にキョーコは立っていた。
蓮の住む部屋と駅も近く、風景も似通っていたから、妙な親近感を持ちながら、歩いていた。
近くまで着き、電話を入れると数コールで相手は出て、「いつでもいいよ」と言った。想像していたよりも若く静かな声だった。
「はじめまして、最上キョーコと申します、よろしくおねがいします」
「工藤です。よろしく。さ、入って」
「失礼します」
キョーコが深々と頭を下げて、工藤仁の部屋に入る。
渡されていた手土産を渡し、勧められたソファに腰をおろした。
既に用意されていた二人分のティーカップ。
正面から見受ける工藤氏は、とても清潔そうな雰囲気で、涼しげな面持ちをしながらもその視線はとても鋭く感じた。見た感じ二十代後半から三十代前半に見受けられた。
「忙しいのに急に呼び出してしまって悪かったね」
「いえ、とんでもないです」
「君を呼んだのはちょっとした興味があってね」
「?」
「元々オレの方が先に君に目を付けたと思っていたんだけど、久遠先生に先にとられてしまった。呼んで貰うようお願いしたら、今、久遠先生が君に非常にご執心だというのも聞いたよ」
「いえ・・・・・・」
「アムアム、読んだよ。君が題材なの?」
「久遠先生の事に関して私は、一切お話できないんです」
「そうだろうね。先生は自分の素性を一切隠しているらしいからね。もしそうだとしてもきっとそうだとは言ってくれないだろうとは思っていたけど」
工藤仁はキョーコに目の前の紅茶を勧めて、自らも一口含んだ。
キョーコも一口含む。アップルティー。甘い林檎の香りがした。
工藤仁はキョーコに紙袋を手渡し、言った。
「それで、原稿はこれなんだけど。預けるにあたって一つお願いがある」
「はい」
「また、来て欲しい」
「原稿を取りに、でしょうか」
「いや。原稿に限らず。遊びに来て、オレに話を聞かせて欲しい」
「話、といいますと・・・」
「久遠先生がどんな素性であれ、かの方も君にほれ込み、題材にしてしまう程だ。なおさら興味があるね。作家として、君の話を聞きたい」
「面白い話ができるかどうかはわかりませんけど・・・」
キョーコは戸惑いながらそう言うと、工藤仁は、少しだけ笑った。
「君に興味がある、というのは、言っておくけど、オレが君に女性として興味がある、という意味じゃない。君の生き方、というか、考え方に興味があるだけだから、誤解の無いように。君を呼んだからといって、どうこう、という話じゃない」
「そ、そういう意味ではなくてですね、あの、」
ややしどろもどろになりながら、キョーコは答えた。
初めてで彼を男性として意識したわけではなかったから、そう言われて急に戸惑いを覚えた。しかし、あらかじめ、自分を利用したいから来て欲しいとはっきり言われている方が、気は楽に思えた。
「あと、今後も久遠先生にお会いするなら、私とした話は話をしないようにね。久遠先生とオレとは同等扱いにしてほしい。なぜなら、互いに君という同じような所に視点があるなら、作品に影響が出るかもしれないから」
「・・・・・わかりました」
「先生の映画にも出るんだって?先生の気持ちは分からなくは無いな」
工藤仁は面白そうに笑った。
「お茶でも飲みに来て。そういえば、先生には様々な噂があるけど、割りと若い方だろう?オレと同じ位か、もう少し若いか・・・あと男性かと思うんだけど。どう?あってる?」
「わかりません・・・・・・」
「ま、どっちでもいいんだけどね。それにオレは作家だから、言葉はいらないけど・・・君はよく感情を抑えているね。久遠先生への忠誠は絶対そうだ」
「先生とのお約束なので・・・。あの・・・でも・・・作家に言葉はいらない、と、同じ事を、久遠先生も仰っておられました。それだけは、お伝えしてもいいと、思います」
「久遠先生の目には、色々な物がとても優しく美しく映っているように思えて、羨ましい。非常に繊細で、人もよく分かっていらっしゃる。きっとご本人もとても優しい方だろう?」
「・・・・・・・・・・・」
キョーコは何も言わず、工藤仁をただ見つめていた。
しばらくじっと工藤仁もキョーコの目を見つめていて、そして、先に工藤仁の方が視線をはなした。
「どうやら、久遠先生は優しい人らしい。そして、少しだけ、オレにも気持ちを開いてくれたようだね。」
「あの・・・」
「これ以上話せない君の中を暴くのはよそうか。君が無口になって、今後何も話してくれなくなりそうだから・・・。それに聞きたいのは久遠先生の事ではなくて、君の話だから、もう、これ以上聞く事はしないよ」
工藤仁は久しぶりに冷めた茶を口に含み、笑った。
キョーコも冷めた茶を口にして、笑った。
*****
「お、お疲れさん」
夜七時半。事務所に戻ったキョーコは預かった封筒を椹に渡した。
「工藤先生はどうだった?どんな用だったの?」
「いえ、また来て欲しいと」
「へえ。久遠先生といい、工藤先生といい、随分君は作家陣にモテモテだ。担当編集に嫉妬されそうだ」
椹は笑いながらそう言って、じゃ、ありがとさん、と言ったあと、視線を外に流し、一人の人物を捕らえて声をかけた。
「やあ、蓮も、お疲れさん」
――あ・・・・・
キョーコも視線を向けた後、少々の緊張を覚えた。
工藤氏の仕事を断らなかった事、今後、工藤氏の家へも伺う事。
蓮にうまく説明できるだろうか。
「敦賀さん、お疲れ様です」
「あれ、今日お休みじゃなかったの?何か、仕事?」
蓮がそう言うと、椹が今日のキョーコの仕事について述べた。
「あぁ、あのね、出版部の依頼で久遠先生のトコ、最上さんに原稿取りに行ってもらっているんだけど、今度は工藤先生の所に行ってもらったの」
「そうなの?」
「あの、先生ご自身から、原稿を私に渡したいとおっしゃられて・・・私が取りに行かないと載らなかったものですから・・・」
「映画も久遠先生の仕事もあるのに大変だね」
やはり蓮が少し気にしただろう事はキョーコにだけ感じ取ることができた。
椹はそんな蓮の微妙な気持ちなど当然気付くはずもなく、キョーコがいかに作家陣に気に入られているかを続けた。
「でさ、工藤先生にもまた来て欲しいと言われてるみたいでね。久遠先生といい、工藤先生といい、この子の事すごいお気に入りみたいなんだよね。すごいだろ?次は工藤先生の作品のドラマとか映画の話来ないかな~」
「へえ、そうですか。来るといいですね。あ、最上さん、良かったら一緒に帰ろう」
「はい」
部屋についてからも、特に蓮の様子に変わった感じはしなかった。しかし、蓮が工藤仁のことについて何も聞いて来ないのが逆にキョーコには怒っているように思えて、不安に思えてならなかった。
しかし、どうして蓮に言い訳をしたいのか、仕事で行ったのだから、もっと堂々としていいのに、とも思う。一つ一つの仕事を全て蓮に報告するわけではないのに、工藤仁の事だけは、一度蓮が珍しくナーバスになった姿を見ていたから余計なのだろう。
シャワーを浴び、ハーブティを二人分入れてリビングに戻ると、蓮はソファでキョーコの作ったクマの抱き枕と台本を抱えて横になって眠っていた。使っている姿を初めて見て、思わずキョーコの頬がほころぶ。およそ腹にかける毛布代わりにでも持ってきたのだろう。
蓮の寝室にブランケットを取りに行き、蓮の身体に掛ける。
蓮の身体とクマの顔だけが覗いているその姿に思わず和んでしまう。
キョーコも床に座り、ソファに寄りかかると、台本を読み始めた。
2010.02.21