「敦賀さん、あの・・・」
と、目の前の共演俳優に言われて蓮はハッとして抱き締めていた腕を離した。
カットの声を聞いたと思ったはずなのに、何度も何度も同じ場面について角度を変えて撮り直し、更には、テイクが重なり、一瞬だけ、意識がどこかへ行ったらしい。
「ごめんね?」
「いえ。何度もすみません、私のせいで。お疲れですよね」
「ううん。ごめん、オレが一瞬考え事をしたんだ」
互いに謝罪合戦を繰り広げる中で、スタッフが次の場面に移る事を告げて、蓮は壁に寄った。社が蓮の横に立って、飲む?と、水のペットボトルを見せて、蓮は、大丈夫です、と言いながら、首を振った。
次のシーンに自分は必要ないから、少し違う空気を吸いたいと思って、社に、「外でコーヒー飲んできます」と言って、スタジオを後にした。
ふぅ、と、息をつくと、先ほどの相手の女性俳優が追ってきて、同じように自動販売機で飲み物を買った。
「何度もすみませんでした・・・」
切り替えの為に蓮が何気なく吐いた息を聞いていたのか、彼女にはプレッシャーに感じたようで、申し訳なさそうな顔でそれを言った。
「いや?別に。何とも思ってないよ」
「すみません」
「大丈夫、少しオレが集中を切らしたんだから、オレが謝るべきなんだ。ごめんね?」
蓮は少しだけ笑顔を付けてそれを言った。
「あの。私の、演技が、悪かったわけではないんですか?」
「ううん?なんで?がんばっているのに」
「・・・・敦賀さんは、お優しいんですね」
「そんなことは無いけど・・・。良い悪いはオレが決める事じゃないから。それは監督の仕事だし」
「そうですけど」
蓮は一瞬周りの様子を目で確認した。
静かなロビー。
少し不安そうな様子の彼女を前に、誰かに聞かれてもいいかどうか考えながら口にした。
「何か・・・気になる事でもあるなら聞くけど?」
蓮がそう言うと、彼女は少しだけ涙を浮かべて、
「いえ・・・今回のお仕事は本当にスタッフの皆さんにも、共演していただいている皆さまにも良くして頂いて。でも、いつも、いろんな方に迷惑をおかけしてしまって。ものすごく厳しくお叱りを受ける事の方が多いので・・・ちょっと。その。何にも言われないと、本当に大丈夫なのかなって確かめたくなってしまって」
そんな事を口にした。
誰かに理不尽な怒りをぶつけられる事やノーと言われる怖さは蓮もよく分かる。
「そうなんだね」
蓮はただそれだけを言った。
いつでも怒られる準備をしているような顔をしている。
理不尽に怒られる怖さで立っていられなさそうな顔をしている。
どんな俳優であっても少なからず同じ気持ちを味わったことがあるだろう。
今きっと彼女は大事な時にあるのだろうと思った。
だから、大丈夫だよ、と、優しく声をかけようかと思ったのに、なぜかそれが口から出なかった。
「すみません、外に出て、空気吸って、気持ち切り替えてきます!」
深々と頭を下げて、頭を上げた彼女の目は、もう既に気持ちを切り替えていて、お辞儀一つで気持ちを切り替えた彼女を見て、蓮は、にこり、と、笑った。それから、やっと「大丈夫だよ。一緒に頑張ろう」と、口に出した。
「ありがとうございます!頑張りますので、また失敗すると思いますが、宜しくお願いします」
また深々とお辞儀をして、彼女は出口の方へ向かって去って行った。
蓮は少し冷めたコーヒーを口にして、もう一度、ふぅ、と、息を吐きだした。
******
「会いたい」
と、仕事中に、開口一番蓮の唐突で短いメッセージの電話がかかってきて、キョーコは控室の電話口で「え?あの?」と思わず口にしてしまった。
相部屋で他の人もいたから、
「お電話いただき恐縮ですが、お仕事がもう少しかかるので、終わり次第改めて掛けなおします。失礼します」
と、務めて業務的に電話を切った。
キョーコは、あの唐突な声を改めて思い浮かべてみて、何となく、「敦賀蓮」としての電話ではないような気がした。今日のスケジュールも恐らく蓮なら覚えているはず。まだ上がりの時間ではない事はよく分かっているはずだ。たまたま着信を残すだけの予定が思わず携帯電話を手にしていたせいで出てしまったのがいけなかっただろうか?普段仕事中に電話をかけてくることなど無いのに。分かっていてかけてくるなんて。だから、社さんや会社に何かあったのか、誰かから急ぎの伝言かしらと思って出た。業務的な声に、向こうはウンともスンとも言わなかった。だから、何かまた、今の現場であったのだろうか・・・と妙な不安がした。
「どうかした?仕事の打ち合わせ?席外そうか?」
相部屋の他の俳優が気をつかって部屋を出ようとするから、
「いえいえ。大丈夫です。社内連絡なのであとで掛けなおしますから」
苦笑いでキョーコはそれを伝えた。
*****
インターホンを押して、蓮の部屋に入り、靴を脱ぐとすぐに蓮が出て来て、「おかえり」と言った。
「こんにちは」というキョーコの声など聞いているのか聞いていないのか、蓮はキョーコをぎゅう、と、抱き締めた。
「あの、手すら洗ってないんですけど。風邪とか何かウィルスとかうつしたらいけませんから」
黙ってぎゅう、と、抱き締め、首筋に唇を寄せる蓮にキョーコがそう言うと、その腕を緩めて、「そうだね」とにこり、と、笑った。でもその笑顔が他人行儀な笑顔だったから、何かを我慢した事も分かった。
「で、どうしたんです急に」
キョーコはリビングで蓮の横に座ると、口数の少ない蓮の気持ちも汲みながら、その目を覗き込むように聞いた。
「あいたかっただけ」
「そう・・・ですか・・・?何か、あの、思っていること、聞いても大丈夫ですか?」
「呼ばないと来てくれないから。疲れたし」
「でも、敦賀さん、今、すごくお忙しくて、お疲れならなおの事」
そう言うキョーコの事などお構いなしに再度またぎゅう、と抱きしめた。
「なんか・・・あの、苦しいん、です、けど・・・」
「じゃあもっと苦しい事しよう」
蓮はキョーコの唇を塞ぎ、キョーコが息をつく暇さえない程、深く口づけた。
散々蓮が飽きる程口づけた頃、キョーコが苦しくて蓮の体を押して、ようやく蓮は唇を離した。
「・・・・つるが、さん・・・」
すっかり力が入らないキョーコをまたぎゅう、と、抱き締めて、
「ああ、これだ」
と、蓮は言った。
「何がですか?」
「この香り・・・同じ香りでも全然違う」
にっこり、と、ようやくいつもの蓮のように笑って、キョーコを見た。
「オレはやっぱり君がいい」
「なんの、事ですか?」
「今一緒にやってる子の使っている香水と髪の匂いが君と同じなんだなって気づいたんだけど。撮影中に抱きしめた時、同じ香りなのに、でもなんか香りが違う、って思って・・・いたら、今日、撮影中、撮り終えた声聞き逃したのがショックで」
「はい?」
それだけで?呼ばれたの?と、意味が分からないキョーコは怪訝な顔をした。
「オッケーは貰えたんだけど」
「きっといくつか掛け持ちですしお疲れだったんですよ」
「集中力を切らしたなって思って・・・」
「確かに敦賀さんにしては珍しいですね」
「君を思い出してしまったからだ。君のせい」
「私のせい、ですか?私、何もしてないのにっ」
散々意味不明な言い分の蓮に、キョーコはおかしくて、もう、と、言いながら立ち上がろうとして、蓮に再度腕を引かれてその腕の中に納まった。
「だから会いたくなったんだ」
「もう今日は本当によく分かりません」
キョーコは蓮を見て、困った顔をしておとなしくその腕の中に納まった。
「何の匂いなんだろう。同じ香水とシャンプーでも何かが違う。肌の匂いかな」
「・・・・私にはわかりませんよお」
首筋に鼻先を寄せる蓮にキョーコはくすぐったそうに身をよじった。
「ま、いっか。あいたかったんだ。久しぶり」
「え、今更ですか?お久しぶりですね」
「二週間ぶりなんだもん。オレも君も忙しくて会えないからもう呼ばなくてもいつでもここに来て。居なくても勝手に入って。住んでもいいし」
「・・・・・・・・」
そんな唐突な。今日は何だか蓮は全て唐突な気がした。
「考えておいて」
「はい・・・」
「それからね、あと・・・急に会いたくなったのは、今の相手役の子が一瞬君に見えてしまったんだ。だからだと思う。少し悩み事を相談されたんだけど・・・・いつもみたいに、大丈夫だよって、普通になぐさめるような無責任な言葉が出てこなかった」
「無責任?」
「そんな無責任に安心させるような言葉をこの子にかけていいんだろうかと一瞬思ったら口にできなかった。君に似ていたから」
「それは、私は、怒ったらいいんですか?喜んだらいいんですか?」
「・・・君に似ているけど、君じゃないんだって思って・・・」
「それで?」
「なぐさめたら、君が怒ったり拗ねたりするなって」
「・・・その言葉、本当ですか?私に似ていたから、厳しくしたんじゃないんですか?なんか私を喜ばせるための・・・悪魔のささやきみたい」
「違うよ、本当に。君に似ていて、でも、違う。だから下手に優しくできなかったんだ。違うって」
「もし、私が同じ相談したら、優しくしてくれましたか・・・?」
「多分君なら我慢して相談してくれないような内容だった。本当はして欲しいけど。優しく・・・すると思うけど・・・どうかな・・・聞かれたら答えずに抱き締めてしまうかも。もっと違う方法で慰めてしまうかも」
「ええ~!そんな事を相手にもしかして思ったんですか?もう。何を相談されたのか分かりませんけど。意味が分かりません。やっぱり怒っていいんだと思うんです」
「その子の事を抱きしめたかったりしたかった訳じゃないよ。君に似ているけど君じゃない、気持ちはわかるけど、優しくできない。抱きしめる事もできない。だから、君に会いたくなったんだ。いつもの君に。優しくしたいのも、抱き締めたいのも、こっち。なんて言葉にしていいのか分からないんだ。多分君を思い出して、ただただ久しぶりにあいたかっただけ」
蓮は再度ぎゅうと抱きしめて、首筋に鼻先を寄せながら、「やっぱり好き」と言った。
「もう・・・」
「あいたくなかった?」
「・・・・あいたかった、ですよ?」
「じゃあいい。許す」
「何をです・・・私何も悪いことしてないのに・・・」
「会いに来てくれない事」
毎日電話もメールもしているのに。
それでも、会いたいと思う事は、キョーコだって同じだ。
「私ももしかしたら、誰かを抱きしめた時敦賀さんと同じ匂いがしたとしても、多分、違うと思うんでしょうね・・・それで思い出して、会いたくなって、敦賀さんに抱きしめなおしてほしくなるのかも」
「そうだよきっと」
蓮は自信満々に言った。
キョーコはその表情を見てくすくすと笑った。
そして、お返しするように蓮の首筋に鼻先を寄せて、すんすん、と、香りをかいで、そこへ軽く口づけた。唇を離すときに、ちゅ、と、音がした。キョーコの指先が蓮の首筋に触れた。それから、蓮の体をぎゅう、と、抱き締めて、胸に顔をうずめた。
「敦賀さんのも、すきですよ。なんかいつも癒されます」
優しく言うキョーコの唇を、今度も息が出来ない程深く蓮は塞いだ。
ちゅ、と、音を立てて唇を離して、くったり、としてしまったキョーコに言った。
「またしてね」
自分の首筋を指さして、にっこり笑った蓮に、キョーコは力が入らないまま苦笑いで伝えた。
「こんなので、敦賀さんが、喜んでくださるなら」
蓮はにっこり笑って、キョーコの体をぎゅうと抱きしめた。
蓮はキョーコの首筋に唇を付けて、肌を軽く吸った。
「やめて」と嫌がって引いたキョーコに、蓮は、「つけてないよ」、と、言った。
「ああ、癒される・・・」
蓮がそう言った。
「本当ですか・・・?」
キョーコが蓮をそっと見上げる。
「こうできないとオレ疲れて死ぬ。どうやって今まで生きてきたんだっけ」
「ええっ」
「今日はもう会いたくて息が苦しくて死にそうだったんだ、きっと」
笑うキョーコを蓮はまた抱きしめて、蓮も、キョーコも、「あいたかった」、 と、再度今日の一番本当の気持ちを口にした。
2019.2.28