Seasons-春- K

椿姫   一

「はっくしゅんっ」

大きなくしゃみをして、キョーコはしまった、と思った。

その横で蓮は穏やかに笑っている。蓮はいつもの場所で車を止め、シートベルトを外した。二人は扉を開け、外に出る。

息が真っ白に染まった。はらはら舞い散る雪。一面が銀世界。キョーコは嬉しそうにして傘もささずに歩き出した。

「風邪ひくよ、傘、さした方がいいんじゃない?」

「風邪なんてひきません!」

「そう言っていたオレもひいたんだから。気をつけてね」

そう言って蓮は自分のしていた白いマフラーを外し、キョーコの首にふわりと巻いた。

蓮の香水の香りがそっと忍び込んでくる。触れば柔らかくて手触りが心地よい。とてもいい品物なのだろうと思った。

キョーコは蓮の行為に驚き、ためらい、それを外そうとした。

「敦賀さんも風邪ひいてしまいますから」

「大丈夫だよ、君よりは風邪の経験少ないんだから。それにマフラー位幾つも持ってる。今雪が降っているとはいえ、もうすぐ春だしね。気にしないで」

優しく笑った蓮は、「歩こう」と言ってキョーコの背中を押した。蓮が数歩前を歩き、キョーコの為に雪道をならす。キョーコはそ

の後姿を見守りながら後ろについて歩く。普段じっくりと後姿など見ることも無いが、雪道でも美しい姿勢で歩き続けている。

途中蓮は足場が悪ければ後ろを振り向き、「足元に気をつけてね」と言う。

その貴公子然と振舞う後姿と気遣いに気付いたキョーコは、動揺した表情を蓮に見せないように俯いた。

蓮の靴の跡の上に、自分のブーツの足跡を重ねて歩く。

手を繋いでみたいな、などと、ひっそり心の中で思いながら。頬が、淡く、紅潮した。

じき冬も終わり、春が来る。雪も最後だろう。キョーコも来月高校を卒業する。

「私が昔住んでいた京都は冬、すごく寒いんです。だから東京で風邪を引くなんて考えられません」

「東京だって十分寒いけれどね」

「雪の量は他が多いのでしょうけど、京都は寒さじゃ負けていません。昔から家の造りが夏向きに作ってあるんです。今はどうか分かりませんが、でもっ・・・雪が降った時の京都も、最高に綺麗で・・・お花に雪がかかっても綺麗で、建物も綺麗です。今の時期だと真っ赤に染まった椿とか・・・もう少ししたら寒緋桜もすごく綺麗です。渋い所では雪のお寺なんかも素敵で・・・。もし撮影で行かれる事があったら景色、見回してみて下さい。あ・・・あの、京都は雪が降らなくても綺麗なんですけど・・・」

キョーコは一気にまくし立てた。 蓮はにこやかな微笑を浮かべながら静かに聞いていた。そんな表情にキョーコも気付き、語尾を濁らせた。

貰ったマフラーからは絶えず蓮の香りがそっと忍び込み、それだけで胸がどきりとする。

だから動揺を隠したくて、京都の話などしている。 京都の話など、蓮にとって幾らも興味はないだろう。

「椿と寒緋桜?・・・ってどんなのだっけ?」

蓮にそう問われ、キョーコはすぐに公園に咲いている赤い椿を一輪手折りに行き、雪を払って蓮に渡した。

「これが椿です。・・・本当は折ったらいけないんですけど、初めて見た記念に。よかったら部屋に飾ってあげてください。あ、でも椿は飾らない方がいいかも?」

「・・・・・・・・」

「あの、敦賀さん?」

椿を見つめて黙りこんでしまった蓮に、キョーコは声をかけた。

「・・・あぁ、ごめん。ちょっとだけ考え事。ごめん・・・これ、見たことあったよ。・・昔・・・見たことがある」

それは見たことがあるだろう。意識しないだけで。キョーコの下宿先の庭でも大事に育てている。もうそろそろ咲く頃だろう。

「椿って種類も薔薇みたいに多いんです。これは今頃咲く藪椿です。椿は京都とか大阪方面に多く咲いていて、昔のお侍がお茶の場に椿を好んだのだそうです。今でもお茶席に飾りますし、住んでいた所では、軒先でよく見かけました。寒緋桜も同じで寒い時に咲く桜なんです。・・・でもどちらも嫌われモノかもしれませんけど」

「桜は日本人なら誰もが好きなんじゃないの?」

「椿も寒緋桜も、咲き終わると花ごと、首からぽとりと落ちるので、

嫌な事を・・・想像させるのだそうです。寒緋桜は普通の桜と違って、下向きに俯いて咲きますし。暗いイメージだけで、苦手な人もいるそうです。お花はどちらもとても可愛いんです。あ、でも、サザンカなんかは同じ椿の仲間でも花びらから散っていくんですけど・・・」

キョーコは、何故自分は椿談義を蓮としているのだろうと、ふと頭の片隅では疑問に思う。が、我に返るより先に蓮の香りが忍び込み、動揺したまま、元に戻る気配がない。

「そう。別にいいと・・・綺麗だと思うけれどね。今までそんな事考えたことも無かったからかもしれないけど」

「私も大好きです。昔は白・赤・ピンク・・・いろんな色や模様を集めて飾りました」

赤い椿はとても可憐。白い椿はとても気高い。一つ一つの違う模様をずっと眺める。尚の家の庭に咲く、沢山の木々花々、椿の枝。幼い頃の懐かしくも、切なくなってしまった思い出。

蓮とキョーコの間でしばらく無言が続き、さく、さく、と、静かに雪を踏みしめる足音だけがする。キョーコが蓮の足跡を追いながら歩き、気付くと、もう、だるまやの前だった。

蓮は振り返ると、キョーコに、

「これ、ありがとう。じゃあ、オレは帰るよ」 そう言って蓮はキョーコに一度笑顔を向けた。

「あっ、マフラーありがとうございました。敦賀さんも風邪ひいてしまったら困りますから」 キョーコは捲いていたマフラーをあわてて外そうとして、蓮に手で止められた。

「いいよ。あげたんだから。春先まで使っていてもいいし、いらなかったら捨てて。明日CMの撮影なんだろう?ちゃんと休んで。寝不足は禁物だよ。じゃあね、おやすみ」

蓮はそう言うと軽く微笑み、背を向けた。

キョーコの為に作り続けた道を逆に辿って行く。そしてあっという間にキョーコの視界からは消えた。蓮はもっと早く歩けるのに、いつも歩幅をキョーコの為に合わせている事にも気付いている。

蓮はキョーコが差し出した椿を本当に飾ってくれるつもりなのか、ずっと持ったままだった。

キョーコは家に入る前、蓮の足跡の上に自分の足を一度重ねた。重なるはずもない大きな足跡。

出来る限り全ての心配りをする蓮に、感謝の気持ちと強い愛しさを感じていた。

キョーコは自分の部屋に戻ると大きな溜息を吐き出しながら脱力した。座り込み、クッションを抱き締める。膝との間に挟まれたクッションに、頬を寄せた。首に巻かれたままのマフラーから、蓮の香りがし続けている。

ふわふわして、甘く、息苦しい、つかみどころの無い感覚がする。まるで恋をする自分に酔っているようでもあった。

気付いたら好きになっていた。いや、好きだと気付くのだって相当の時間がかかった。自分の心に気付くのさえ困り果てたのだから、この先一体どうすればいいのかなどすっかり分からない。

恋心を忘れる方法か、無かった事に出来る方法が知りたい。蓮ほど好きになっても仕方のない人はいないのだから。蓮は、自分だけでなくどんな人にも平等に優しいのだから。

報われる事のない恋だと分かっているから、いつでも、恋心が起き出しそうになったときは、「仕方がないのよ」と、自分で自分の気持ちをそっと秘める。かつてのように「好き」と言い続けるより、ダメだと思いながら秘め続ける事の方が、よほど甘い感情に囚われるらしい。

キョーコは、「ハァ・・・」とまた大きく息を吐いて、クッショにさらに強く顔を押し付けた。

蓮の事を思えば、蓮もこの所よく考え事をしている。昔なら強引にでも、落ち込んだり考え事をする理由を聞きだし、世話を焼いたかもしれないのに、今では何を考えているのか、なぜ元気が無いのかを問う事すらも出来ない程、意気地がない。それでもどうにか元気付けられる事が無いかずっと考えていた。そして今日。

――すぐに捨てられるかもしれないけれど・・・。

自分のために編んでいたマフラーを蓮にあげようと思い至った。冬にしようと思って編み始めて、中々編み進まなかったマフラー。

それが誰かの為だと急に編み進んでしまう。手編みのマフラーなどどうとも思っていない相手から貰っても、と思いながら、それでもキョーコは蓮からマフラーを貰っているから、「私もマフラーでお返しします」と言える、随分と無理矢理な大義名分があった。

クリーム色のマフラー、やや太めの毛糸を使った軽い手触り。蓮に合わせて当初の予定よりも少し長めに編んだ。思い立てばすぐに出来上がった。しかし渡せずじまい。しばらく部屋に置いたままになった。

しかし蓮は先日キョーコにマフラーを渡して以来、マフラーをしていない。本当に沢山持っていたのだろうか。もしかして本当は一本しかなかったのにくれたのかもしれない。貰った物を返しても当然いらないと言うだろう。

「敦賀さん、あの椿どうされました?」

マフラーを貰った日以来、久しぶりに帰りが一緒になった。蓮がキョーコを送ったその帰り道。いつものように公園の中を、キョーコの下宿先の近くまで歩いた。

「飾ったよ。この間本当に花だけぽとりと落ちたから、それだけ水に浮かべてある」

「本当ですか?敦賀さんが花を生ける様子ってあんまり想像がつかないです・・・」

「失礼な。花ぐらい生けられるよ。しかも一輪」

「ふふっ。言ってみただけです。こっちの椿はまだ頑張っていますね。気に入って下さったなら・・・もう一輪だけもらっちゃいましょうか。敦賀さんに飾って貰えるなら、椿の枝も許してくれると思います。・・・はい、どうぞ」

「・・・・・」

また蓮はそれをじっと見て、今度はキョーコをじっと見た。キョ

ーコがその視線に気付き、不思議そうに蓮を見つめ返した。

「・・・・?」

「いや・・・。マフラー・・・してくれているんだね」

「捨てるなんてできません。ありがたくつけさせてもらっています」キョーコが笑顔で蓮にそう返事すると、「それならよかった」と言

い、続けて「ところでさ」と言った蓮は、

「・・・椿・・・・・・「椿姫」・・・知ってる?」蓮は椿を見つめたままそう言った。

「名前だけは知っています。音楽でオペラの授業をやったんです。その時に「姫」と付いていたのに内容よく知らなかったから、気になっていたんですけど」

「ねぇ、あのさ、ずっと聞きたかったんだけど。普通の童話の姫ってその後幸せだと思う?」

「え?・・・ええ・・・幸せだと思うんですけど・・・?」そんな事考えたこともないから。

「うん・・・そうだね。・・・・なら「椿姫」は読まない方がいいかもしれないな。最上さんの期待する「姫」とはかけ離れているかもしれない」

蓮は自分の中で何かを納得させるように「そうだね」と繰り返した。そして蓮は、またじっと椿を見つめた。

「そういうお話・・・なんですか?」

「そうだねぇ・・・王子様とめでたし、という物語ではないよね。オレは好きだけど・・・。もし読むなら、少し覚悟を決めてから読んでごらん?」

――「姫」なのに姫じゃない。

――私が読むのになぜ覚悟がいるのかしら。

キョーコはすぐに本を読んだ。そして蓮が含みを持たせた理由を理解した。

椿姫は、確かにキョーコが期待する姫とも、オペラの華やかなイメージともかけ離れた「姫」だった。

フランスに実在したという椿姫、マルグリッドは、「姫」とは名ばかりの娼婦。不治の病であった結核を持ち。多くの男に溺れ、男に尽くして亡くなった。最期の数ヶ月、主人公である純粋な男を愛し、愛されて、幸せになれるかと思いきや、彼の父親に引き離され、一人亡くなる。

彼女が「姫」だったのは類稀なる美貌の持ち主だったから。「椿姫」という名前が付いているのは、椿が好きだったから。

キョーコは、蓮に会ったら、確かに自分の「好きな姫」ではありませんでしたと言おうと思った。

それでも、本心は少しだけ、ほんの少しだけ、うらやましいと思った。どんなに荒んでも、最期、お互いに想いあえた相手がいた。彼は荒んだ彼女を心から救おうとした。荒んだ彼女は彼によって純粋な一人の少女に戻った。愛したからこそ、自分から離れて身を引く事で、「娼婦遊び」というレッテルを彼から剥がそうとした。もし結核じゃなかったら、もし娼婦などではなく普通の女の子だったら、

そのような選択はしなかったのに違いない。

本を閉じたキョーコは大きな息を吐き出した。

蓮は、自分の荒みきった恋を、救ってくれた。椿姫と自分が、少しだけ重なった気がした。

そしてマフラーが渡せなかった事を思い出し、せっかくだからマフラーの裏に椿の模様をつけてみることにした。小さな布に赤い椿と白い椿の刺繍をした。ブランドのタグのように。

世界に二個とない、自分の印。世界に二つとない、自分の気持ち。今まで蓮を思ってきた印。

もうマフラーを渡さなければ冬も終わる。

帰る時だけならつけてくれるだろうか。たった一度だけでいい。蓮が自分にしてくれたように、心暖かくなってくれたらそれでいい。

*****

蓮の車から降りると、キョーコは寒さで一気に首をすくめて蓮から貰ったマフラーに顔を埋める。いつしかもうマフラーから蓮の香りはしなくなっていた。

「今日も寒いですね。そうだ敦賀さん、例の「椿姫」、読みました」

「えっ・・・本当に読んだの?・・・期待・・・外れたんじゃない?」心底意外そうに蓮は驚き、歩みを止めた。

はい。全然思っていたような「姫」ではなかったです。娼婦ですから。彼女はそれでも「姫」だった。・・・最期まで、いえ、死んだ後もずっと愛してくれる人、いましたから」

「・・・・・・・」

「マルグリッドが亡くなった時、私とそんなに歳が離れているわけじゃないんです。ただ私が椿姫だったら幸せだったか、と思うと・・・それは悩みます。せっかく純粋な恋を知って、女の子に戻ったのに、不治の病。残された彼・・・もあまりに可哀想です。生きてさえいれば、別々になっても会えますから。だから・・・私が恋心を隠したまま、もし今もうすぐ死ぬとしたら、どう思うかなって・・・」

――今もし死んだら。敦賀さんに思いも伝えず死んだら?

「うん・・・オレは好きだけどね。ただオレだって彼のように、あんなに純粋に見返り無く相手を・・・まるで初恋のように愛せるかと言うと・・・・分からないけれど・・・・」

蓮は綺麗に微笑した。蓮ならきっと、相手を心から大事にするだろう。主人公のように。

「敦賀さん、そこでちょっと待っていて下さい。すぐ戻りますから」だるまやの横の、人目に付かない所で蓮に待ってもらった。

緊張してキョーコの喉は枯れた。女将に帰った挨拶をして、「もう一度外に出ますけど、すぐ戻ります」、と声をかけた。

外に戻ると蓮は壁に寄りかかっていた。長身が闇夜と月の光の中に照らし出され、一枚の絵から出てきたように美しかった。

一瞬にして目を奪われる。

キョーコは蓮に近寄ると、少し屈んで下さい、と言った。

「ずっと迷っていたんですけど・・・前に敦賀さんのマフラーを貰ってしまって・・・していないみたいですから・・・今日の帰りくらいは役立つと思います。お誕生日、おめでとうございます」

キョーコは照れ、考えていた言葉を一気に告げた。蓮を見上げると、蓮は無表情でキョーコが捲いたマフラーを見つめていた。

「最上さんのにおい、する」

一度マフラーに顔を埋めた蓮は、口元だけ笑ってそう言った。

――同じこと思うなんて・・・。

キョーコは一気に顔が火照るのが分かって、今いる場所が薄暗くてよかったと思った。その笑いは卑怯。何も言えなくなってしまう。

「最上さん本当に器用だね・・・ありがとう。作ってくれたの?あれ、この裏の小さいタグは・・・椿?これも手作りなの・・?最上さん本当に器用だね・・・」

蓮は手編みのマフラーや、遊びで付けた手作りの椿のタグを一切バカにしなかった。外す素振りも見せず、キョーコがかけたマフラーをしっかり捲きなおした。

「正確には今日の夜十二時を回ったら・・・ですけど・・・。明日、もし時間が合えばケーキ、食べましょう。あっ、あのっ・・・お祝い、してくれる人がいるなら邪魔しませんからっ。また次の機会でいいんですけど・・・」

幾らゴシップ無しの蓮だとはいえ、恋人がいるのかもしれないと、今更ながらキョーコも気付いた。

蓮も黙ったまま何かを考えている。

「明日は夜・・・予定ないよ・・・お祝いしてくれる?もし時間があったら、明日ウチに寄っていかない?」

「・・・もちろん。学校が終わったら敦賀さんの家に寄ります。ケーキ作りましょう!それからご飯も作りましょう。何ケーキがいいですか?」

キョーコは、普通に答えるので精一杯だった。

蓮は楽しみにしてるね、と言った。そして、「これ、ありがとう。おやすみ」と言い、すぐに背を向け、いつも通りあっという間にその姿が見えなくなった。

キョーコのそれは長い溜息が、誰も居ない道に響く。様々な感情が同時に身体の中を巡る。

誕生日を共に祝えて嬉しい。そして、明日、蓮の家などに行ったなら、きっと明日以降、更に勝手に好きになってしまうだろう予感がする。懸命に秘めてきた心などあっという間に新たな心に飲み込まれるだろう。

蓮は、素で優しくできてしまう人だから、ただ単にタイミングよ く自分がお祝いをさせてもらえるとしても期待などしてはいけない。側にいられるだけでずっと幸せなのに。

今の関係を崩したくない。言わなければずっと蓮は尊敬すべきいい先輩でいてくれるだろう。いつか、我慢しきれなくなって言ってしまうかもしれないけれど・・・。いや、一度位、素直になってみ

てもいいのだろうか。蓮に彼女も、好きな人も、いていいから。伝えてみたら、何かが変わるだろうか。

「キョーコちゃん?」

「女将さん」

玄関のドアを開けた女将は、キョーコを見つけると声をかけた。

「寒いだろう?そろそろ中にお入りよ」

「はい・・・」

「キョーコちゃんをいつも送ってくれる人、誰なんだい?」

「えっ・・・。あの・・・」

「いや、言いたくないならいいんだけどさ。いつも送ってくれるから私も会ってみたかったんだよ。「いい人」・・・なのかい?」

「いえ、そんなんじゃありません。事務所の先輩です」

「そうかい?私も芸能人に詳しい訳じゃあないから、先輩と言われても誰なのか想像もつかないけど・・・キョーコちゃんも、もうすぐ大人の仲間入りだし、そういう事には口出しをするつもりはないんだけれどね。でも大将が心配していてねえ」

女将はその姿を思い出して笑った。

「あっ、すみません。そうですよね、最近撮影が入ると夜遅かったですし・・・」

「女の子だからね、気をつけてあげないと、と思っているみたい。芸能界なんてきっと鬼の住む所だとでも思っているのよ、あの人。・・・キョーコちゃんこんなに綺麗になったのにねぇ。そりゃ、いい人もできるでしょうよ」

「・・・いえ、先輩ですからっ・・・」

「まぁまぁまぁ、いいのよ、さぁ、入りましょう」

女将は人の話を全く聞く素振りも無く、送ってくれる人は「いい人」だと思い込んでいるようだった。

*****

次の日。

「キョーコちゃん。聞きたい事が・・・あるんだけど」リコはおもむろにキョーコに切り出した。

リコはキョーコのメイク担当をしている。キョーコの三つ年上で、長い間キョーコの気持ちを理解してきた。

仕事が終わり、メイクを落とし、衣装も着替え終わっていたから、リコとキョーコは控え室に二人きりになっていた。

「はい、何でしょう?」

「今は誰もこの部屋にいないから言うけど」

「はい?」

「敦賀さんの事、まだ好き?」

「・・・はい・・・やっぱり諦められなくて・・・」

「そう。いいのよ、責めている訳じゃ、ないの。でもね、一人だけの人に・・・そこまで思いつめて・・・絞らなくたって。前回もそれで泣かされたんでしょ?この世界なら、沢山素敵な男の人、いるじゃない?もっと遊べる年齢なんだから。色々な人と付き合ってみたりして、色んな人を見たっていいと思うの。それにあの人じゃなくても優しくて・・・ずっと傍にいてくれて大事にしてくれる人、

いるかもしれないじゃない?」

「・・・なんだかリコさんらしくない言い方です。私・・・そんな大人みたいに器用に恋愛なんて、できそうにないです。敦賀さん・・・大事にしてくれていますし・・・それに出会った頃に比べたら十分過ぎるほど優しいです。あの人は、私に目標を沢山くれるんです。だから・・・今は・・・あの人だけ・・・見て、追いかけていられれば・・・。それですら、いつも精一杯なんです。他の人は、今は・・・」

キョーコは一言一言を噛み締めるように伝えた。リコも苦笑う。

「くすくす。ごめんね。冗談よ。昔から聞かされて・・・よっく・・・分かってるわ・・・。でももう一度聞いてみたかったの。あなたがあの人のこと、どれだけ好きなのか。私の大事なキョーコちゃんをたぶらかすなんて、本当にひどい男。顔がいいだけに許せないわ。しかも性格も。本業の仕事は更にいいときてる・・・」

「くすくすくす・・・実はもしかしてリコさん、敦賀さんに焼きもちですか?びっくりしました・・・」

「そうよぅ。もう、どうにかならないか思索中よ。あの男、本当に曲者だわ」

腕組みをして、本当に悔しそうにリコは言った。リコが心からキョーコの事を心配しているのは、キョーコも分かっている。

「敦賀さん・・・今日、お誕生日なんです。敦賀さんのおうちにお祝い・・・この後・・・行ってきます」

「敦賀さんの家に・・・・?」

「えぇ」

「そ、そう・・・・。気をつけてね・・・・」

「大丈夫ですよ、まだ明るいから危なくないですし」

「・・・・・・・・・・・」

「・・・リコさん?」

「あなたは本当に可愛くて大好きよ。その、素直な所がね。きっと敦賀さんもそんな素直なあなたを分かって・・・優しくしてくれるようになったんじゃないかしら」

くすくす笑い、「じゃあ特別にメイク、しなおしてあげましょうか」と言って、キョーコを椅子に座らせた。

いつもの女優メイクではなく、うっすらパウダー、うっすらベビーピンクのリップ。丁寧に睫毛を整え、頬に淡いベビーピンク色を乗せたリコは、満足そうに、「このメイクでうっすらと目でも潤ませれば、落ちない男はいないから!本当よ!だから早く敦賀さんを落としてらっしゃい!」と、キョーコの耳に吹き込んで、照れたキョーコを送り出した。

*****

「敦賀さんお誕生日おめでとうございますっ」

作ったケーキに蝋燭を灯して蓮の前に差し出した。吹いて一気にかき消した蓮は美しく微笑み、ありがとう、と言った。キョーコは視線を蓮に合わせる事ができずに、目はTVに頼った。

蓮は「いただきます」と言って手を合わせた後、静かに料理を食べ続ける。相変わらず蓮らしいとキョーコも思う。自分にもそんな

無表情の作り方を教えて欲しいと思う。蓮対策用に。

二人はたわいもない話を続けながら、蓮が主演するドラマを見ていた。ドラマ自体蓮を際立たせるように作られている気がするから、演出家や脚本家もきっと蓮の特徴を良く分かった人なのだろう。蓮のドラマを見続けてきたキョーコがそう思うのだから、ある意味確信に近い。しかしドラマが最終回に近いせいで、見慣れているとはいえ、「そういう」シーンばかりだったのは微妙な気分だった。蓮は冷静にそのシーンを見ながらご飯を食べあげてしまうし、きっとどうしようもなく困っていたのは自分だけに違いない。蓮のように冷静沈着無表情を保ったつもりで、どうだっただろう。

二人で共に片付けをした後、キッチンでは、ケーキ作りの時に余ったクリームをキョーコがコーヒーに落としていた。

「はい、お口直しにどうぞ。ブラックじゃないですけどいいですか?クリーム余ってしまいましたから」

「・・・・・・・」

じっと蓮に見つめられたキョーコは、「?」をその表情に浮かべながら、蓮を見ていた。

蓮は手を伸ばすと、キョーコの顎に手を置いた。四本の指が頬を沿い、猫の顎を撫でるように優しく撫でたあと、キョーコの頬を親指でぬぐい、放すと、ぺろりとその親指を舐めた。

「クリームついてた」

それは綺麗に「にっこり」と笑った。 コーヒーにクリームを落とした時にでも付いたのだろう。

原因は分かるけれど。

――こんなありきたりな事本当にしていい訳?

――これは何も関係ない男女がしてもいい事?

キョーコはぐるぐる目を回す。妙な恥ずかしさにうろたえたキョーコは、蓮を見上げたまま口を開けて固まってしまった。

蓮はしばらくキョーコをじっと見て、吹いた。

「最上さんってホント、面白い。見ていて飽きないよね」

「見せ物じゃないんですけど」

「いや、それは君の特技だって。そういないよ?」

――この人は・・・・人をバカにするのが特技みたい。そう思って、でも口には出さなかった。

「敦賀さん、こっちはもうちょっと後で渡す予定だったんですけど、しばらく会えそうにないので・・・はい、これ。こっちは社さんに明日にでも渡して下さい」

キョーコはそう言って、置いておいたバレンタイン用のチョコの包みを渡した。ケーキを作る間にチョコも溶かして、一緒に作った。

「?」

「あ、バレンタインチョコです。今日はケーキ食べていますから、また後日開けて下さい。日々お世話になっているお礼です。でも敦賀さん、また部屋中チョコだらけになりそうですねっ・・・」

事務所に届く蓮宛てのチョコダンボールの山を思い出して吹いた。そろそろ周りの共演者も蓮目当てに渡している頃だろう。

「食べ過ぎると美容には悪いんですけど、甘くはしていませんから。ダメならコーヒーかホットミルクに落としてもいいですし・・・」キョーコが何とか苦しい言い訳を繕っている間に、蓮はキョーコ

の話を聞いているのかいないのか、その包みをすぐに開けた。

「ありがとう・・・嬉しいよ。・・・ん?これ・・・も作ったの?」箱の端に入れておいた砂糖菓子を指差して蓮は言った。

「え?はい。砂糖細工も面白くて手習ったことがありましたから」尚の家の厨房には色々な職人がいた。こんな時にも役立ってくれ

るのが、少しだけ腹立たしいけれども。

「薔薇、じゃないよね?椿?」

「はい、ちょうど話が出ていたお花でしたから」

白いのと赤いのを一つずつ入れた。マフラーのタグと同じように。こっそり入れたキョーコの思いの印。

蓮は気付くだろうか?

「そう・・・本当に器用だね・・・」

そう言った蓮は、白い方をつまんで口に入れた。

「・・・甘い・・・」

「・・・砂糖ですから」

「それはそうだね」

キョーコも蓮も笑って、蓮は傍にあったコーヒーに口をつけた。そしてチョコレートの箱に蓋をした。

「こっちは社さんに渡しておけばいいんだね?明日渡しておくよ。

喜ぶんじゃないかな。・・・そうだ、昨日のマフラーと今日のお礼。手を出して」

そう言って蓮は、小さな白い椿の花が付いたピンバッジを胸のポケットから取り出し、差し出したキョーコの手の平に置いた。

「たまたまモデルの仕事で試作品の中に見かけて・・・譲ってもらったんだ。椿、好きだって言っていたから気に入ると思って。何か買いに行こうとも思ったんだけどね。昨日の今日で・・・どこにも行けなかったから。こんなので、悪いんだけど」

この世に一個しかない物。椿が好きだと言ったのを覚えていて、わざわざ貰ってくれたのだろうか。

「ありがとうございます。可愛い。大事にします」

そう言って、キョーコはバッグに早速付けようとした。

「小さいし、引っ掛けて取れるかもしれないから・・・内側の方がいいんじゃないかな」

「確かに外側じゃ、すぐ取れて無くなってしまいますね。でも、せ っかく可愛いのに、見せられないのも、勿体無い気がしますね・・・」キョーコはバッグの内側に付け直し、しばらく眺めた。自分の誕  生日ではないのに、こんなに嬉しくなってしまっていいのだろうか。

蓮は、気にいってもらえて良かったと言って、笑った。

その後キョーコの下宿先まで送った蓮は、「またしばらく来月ぐらいまで東京に戻れないから、またね」と言って、去っていった。

「キョーコちゃん・・・・。あの人、有名な人じゃないの」

「ひゃぁぁっ・・・・・女将さん」

振り返るとだるまやの女将が、驚いた顔をして立っていた。

「いくらなんでも・・・私だって知っているよ。実物があんなに大きいなんて。いい・・・男だねぇ。あぁびっくりした。キョーコちゃんの行っている事務所はすごい所なんだねぇ」

「お、女将さん・・・」

「そりゃあ、キョーコちゃんも綺麗になるわよねえ。あんな彼がいたんじゃ。大将には黙っておいてあげるから、安心おしよ。あの人が知ったら目くじら立てる様子が目に浮かぶからね」

「だから・・・あの、彼じゃないんです。先輩なんです。たまたま縁が重なってお世話して頂いているだけなんです。送ってもらえるのも仕事が重なった時ですから」

「そうなのかい?まぁそう言うならそれでもいいけれど。そんなに暇な人じゃないだろうに、たまにだって送ってくれるなんて、偉い事だよ。あの人がテレビに出ていたら応援して見てみるよ」

女将はようやく半分ぐらいは納得したようだった。そして女将は部屋に戻ると、コタツで丸くなりながら、CMで写った蓮をまじまじと見ていた。

そんな女将を横目で見ながら、キョーコは部屋にもどり、久しぶりに、コーンを取り出してから布団に潜り込んだ。

*****

――・・・・女将さん、敦賀さんは、彼じゃ、ないんです。

女将に告げた言葉を、キョーコは心の中で何度も繰り返していた。蓮は全ての人のもの。椿姫のように、人魚姫のように、どんなに

思っても最後には手の届かない人。

人魚姫は王子の傍にいたくて声を失った。マグリッドは命と引き換えに一瞬の愛を得た。キョーコは尚を失って今、蓮の横にいる。これ以上を望めば、何か更に大きな代償を払うのかもしれない。

マグリッドが沢山の男の人に愛されて囲まれて心が麻痺したように、蓮も沢山の女の人に愛され囲まれて・・・。

自分もその中の一人なのだと、優しさも、何もかも全て、勘違いをしているだけなのだと、何度も思おうとした。それでも蓮を、尊敬する先輩、という枠にはどうしても戻せなかった。

彼に一体どんな反作用を期待しているというのだろう。理性では、痛いほど、分かっているはずなのに。

好き、という言葉に置き換えられているだけで、実は助けて欲しいとか、優しさに依存しているだけの心の弱さの表われではないのか、とも思ってしまう。恋に恋しているような。

それでも今まで様々な心の弱さや迷い、そして、尚への気持ちを素直に見せ、相談できたのも蓮だった。だから自分のそれまでのほぼ全てと、芸能界へ入ってからの全てをも知っているのも蓮だ。他の人間にわざわざ聞いてもらおうとか見てもらおうとは思わない。だからいつか、蓮が想う相手と、もし、恋を、成就させたなら。 自分はどう思うのだろう。うまく祝福できるだろうか。あの優しい手は誰を守るのだろう。蓮の腕の中の暖かさと安らぎを与えられる

だろう、その相手が、素直にも、心から羨ましかった。

蓮を誰にも譲りたくない、触って欲しくないという独占欲が無い訳ではない。

でも、むしろ、早く蓮には思いを遂げ、幸せになってもらいたい。自分はもう、思うだけ無駄だと、想い出にしなければ、と、思わせて欲しい。

蓮の生きていく世界の中で、蓮が心から思っている人と、幸せになってくれれば、それでいい。

『ほら、やっぱり、思う通りにはならないのよ』誰かに、そう罵って貰いたい。

どうして、好きになってしまったのだろう。

手に入らない幸せほど、夢などという言葉に置き換わり、むやみに追いたくなる。自分の気持ちすら自分で肯定もできないし、否定も出来ない。グレーなままでいたい。

分かっている、分かっているけれど。

『ずっと傍に居たい』様々な感情が溢れた。

蓮の性格とはいえ、誰にでも平等に優しいというのはある意味で無駄な期待をさせるだけ、罪作りのようでもある。蓮は気を配っているだけで何ら悪くないのに、蓮のせいにしてしまいたい。

気付いた時にはもう心の一番奥に蓮がいた。きっと辛くなるのは分かっていた。恋などという自分の気持ちなど、消してしまいたかった。

今こうして辛いのは、きっと、もう二度と恋をしないと決めたのに、してしまった罰だ。辛くて、当然。叶わなくて、当然。

蓮が思いを遂げ、幸せになれば、いつかこんな日々も忘れられる。

毎回、自分に言い聞かせる。

その度、蓮に会えば、蓮の存在が、声が心の奥に優しく入り込んできて、元に戻り、『すき』と言って自分の気持ちをさらけ出してしまいたいような気にさせられる。

これ以上、蓮の優しさを知ったなら。

久々に涙が出た。

尚に捨てられた時に流した涙とは全く違う涙のような気がした。貰った椿のピンをながめて、コーン石を再度強く握り締めた。

*****

キョーコの卒業式は、だるまやの大将と女将が店を午前中休みにしてまで見に来ていた。式が終わった後、大将は心から大事に育てていた椿の枝を「朝切ってきた。祝いだ」と言って、卒業式らしく赤と白とを一つずつ渡した。キョーコは嬉しくて式が終わって即刻泣いた。

帰る時間になると、キョーコは、もう少し学校にいたくなってしまった。最後の思い出が欲しくて、皆が帰った教室で一人懐かしく

浸っていた。

――敦賀さんにも・・・・会いたかったな。

蓮の誕生日を祝ってから一ヶ月、蓮には会っていない。蓮は映画撮影のために京都の撮影所に行くと言っていた。今の京都はちょうど椿も寒緋桜も咲き誇り、沢山の花々が芽吹き、それは綺麗だろう。蓮も周りを見回しているだろうか?

もうすぐ白木蓮も枝垂桜も八重桜も、花水木もチューリップも鈴蘭も咲いて咲いて、春が来る。春が来ればこの恋ももっと軽やかになると思いたい。

キョーコは暖かい教室が心地よくて、机に伏せたまま、うたた寝をしだした。キョーコを教室に見つけた教師が、早く帰れと声をかけた。キョーコは返事をしながらそれを横耳で聞き流し、また目を閉じた。制服というパスカードを持っていなければ、この場には入れない。もう二度と入れないのだから。

キョーコは、コーンを握り締めたまま意識を手放した。

とても心地の良い「いい夢」を見た。暖かい春の夢。制服のキョーコが、埋もれるほど沢山の花々に囲まれて、そして、蓮が会いに来る夢。「今日で制服最後なんです、見納めですよ」と蓮に言うと、笑われる。

こんな夢ならずっと見ていたい。醒めたくない。すごく久しぶりに見た「いい夢」。 蓮の香りがして、安心する、夢。

・・・・・・・・??夢?」

キョーコが飛び起きて外を見回すと、もう夕方だった。校庭にも、生徒の姿は殆ど無い。

何かが背中から落ちて、振り向くと、

「・・・・おはよう」微笑む蓮が、居た。

何か香っていたのは、蓮のコートからだったようだ。それが背中から落ちたのだろう、床には蓮のコートが落ちていた。

蓮は収まりきらない足を組み、机の上にひじを付いてじっとキョーコを見つめている。蓮と目が合った。

「・・・・・敦賀さん?・・・・何故・・・?」

「間に合ってよかった。君の制服姿、見ておきたかったんだ」   そう言って蓮は身体をキョーコの方に向けた。キョーコは嬉しさ

と驚きとで、表情が崩れそうになるのを必至で止めていた。蓮の無表情を真似たつもりだった。出来ていただろうか。

「な・・・なんで・・・教室に・・・?」

「さっき東京に帰ってきたんだ。君が卒業式なのは知っていたから来てみた。ここに君がいる事は親切な人が教えてくれたよ」

敦賀蓮だと分かって不親切な人はいないだろう。誰なのだろう。もし蓮だと知ったら、教室に人が群がっていてもおかしくないのに。そう思ったが、誰も教室の外には見えない。

キョーコは勝手に湧き上がる感情を抑えようと努力を続けた。

「お久しぶり・・・ですね。京都、綺麗だったでしょう?」

「うん、沢山花が咲いて、少し時間があった時には寺も見られたよ。

そんなに有名な所へはいけなかったけれど、逆に誰も来ない寺はゆっくりと時間を過ごすには良かった。セリフを覚えたり、考え事をするのにはもってこい、だね・・・」

蓮は立ち上がると、教壇につかつかと歩いて行った。

「昔、君と共演した時オレは教師で・・・君は生徒だったけれど・・・本当に君はもう卒業するんだな・・・」

あの頃を懐かしむように蓮は感慨深げにキョーコを眺めて、教壇を降りて、再度キョーコの目の前に立った。

机の上に綺麗に並べられていた赤い椿と白い椿を指差した蓮は、

「ねぇ、その白い椿、オレにくれない?」と言った。キョーコは少し、迷った。

「えっと・・・これは・・・・」

大将がプレゼントしてくれたもの。もし帰った時に持っていなかったら、と一瞬思って、首を横に振った。

「これはだるまやの大将から貰った卒業式のお祝いなんです・・・」

「・・・ごめん、気にしないで」

蓮は微笑して、「でもこれはあげるね」と言って、再び教壇まで戻ると、下に隠してあった大きな薔薇の花束を取り出し、キョーコに渡した。真っ赤な薔薇が沢山寄せ集まっている。

よく見ると、蓮は、キョーコが渡したマフラーをまだしていた。

「ありがとうございます。・・・・いいにおい。女の子なら・・・薔薇を一度位沢山貰ってみたいですから・・・嬉しい。やっぱりこの椿あげます。来てくれて嬉しかったから。敦賀さんならこの椿も大事にしてくれると思いますし。白い椿の方で、いいですか?」

蓮は「白がいい」と言って、キョーコの差し出した白い椿を受け取り、そしてコートのボタン穴にさした。不思議そうな顔をするキョーコを見て、蓮はそっと笑みを浮かべた。

「「椿姫」、オペラも見て、原作も読んだんじゃ・・・ないの?」

「ええ」

「これは白い椿。意味、分かる?」

「・・・・いえ?」

蓮は苦笑して、「そうだろうね、そうだよね」と一人呟き、「口を開けて」、と言った。キョーコは間抜けに、ぱかりと口を開けた。

キョーコの表情に笑い吹いた蓮は、ひとしきり笑うと、キョーコの口の中に飴を一つ入れた。

「バレンタインのおかえし。オレはさすがに飴細工なんてできないから、既製品だけどね」

ミルク飴。お子様の味。

高校を卒業しただけでは、まだまだ子供らしい。どうしたらこの差は縮まるのだろう。きっと仕事の経験など、もっと埋まらない。悔しくて、もらった飴を噛んであっという間に食べてしまった。

――あ、味わうの忘れた。

ふと頭の片隅で、もったいなかったかな、と思った。ホワイトデーのお返しなど、もらえると思っていなかったから。

「最上さん、卒業おめでとう。もう・・・大人だね」

「まだ子供ですから、いいんです」

「・・・じゃあ大人になるついでに・・・教えてあげようか?」

「何を、ですか?」

せっかく会いたかった蓮に会えたのに。可愛くないのは分かっているけれど。どうしても正直になれなくて頬は膨れてしまう。

「本当の実物の「椿姫」であるマルグリッドはね、夜、遊びに出る時、トレードマークとして赤い椿と白の椿を好んで付けていた。でもね、白い椿は一ヶ月のうちたった一日だけしか付けなかったんだ。その椿をね、一緒になりたい人に渡した。だから白い椿は、特別の証。誘いの印。あなたのものになりたい、っていう意味で渡したんだ。ね、オレが君に、その白い椿が欲しい、と言った意味、分かる?それとも、もっと説明が、欲しい?」

キョーコは、意味を考えて、瞬間的に頬が火照った。首を左右に何度も振る。

赤い椿を渡したり、マフラーの裏につけたり、チョコに入れたり。無意識に蓮を誘ってしまっていたのだろうか。

思いの印は、意外な所で届いていたのだろうか。蓮は、キョーコの白い椿が欲しい、と、言った。

俯いたキョーコを、蓮はその大きな手で、自分に向かせた。キョーコは蓮に目を合わせられなくて、視線はじりじりとあらぬ方向へ逃げた。蓮が愛しそうにそれを見て、微笑む。

蓮は自らの身体を折って首を傾けると、その整った顔を近づけた。

額を合わせられれば、視線の逃げ場がない。

目が合ったところで、蓮はキョーコの鼻先に口付けた。

身体を巡る切なさで、キョーコの目はうっすらと閉じていった。蓮はゆっくりと唇に降りていき、キョーコの唇を確かめるように、

一度口付けた。離した唇から、互いから思わず漏れた息が、混じる。キョーコは力が抜けて、壁に沿ってぺたりと床に座り込んでしま

った。

壁を手で伝い、ゆっくりと追う様に蓮も屈んだ。右腕でキョーコを抱きいれ、左手を壁に付けば、蓮に視界は遮られて蓮以外何も見えない。キョーコは逃げる術を失った。

蓮はもう一度額を合わせ、キョーコの瞳を覗きこんだ。

さらり、さらり、と、蓮の髪がキョーコに流れ、落ちていく。 そして壁に手を付いてバランスを取り、何度もついばむようにし

て、蓮は口付けを繰り返し始めた。

どこで息をすればいいのかわからないキョーコは、右腕で強く引き寄せられた時に細々と息を吐き出し、苦しげに吸った。

その息をした唇の隙間から、蓮の舌が入り込み、軽く吸われた。優しく絡め取られると、身体を巡る切なさは、さらに増した。

どうしたらいいのかわからないまま、蓮が与える感覚に酔い続けた。夢なら醒めたくないと、思った。

「甘い・・・・・」

気が付くと上から声が降って来る。

「・・・・・・・?」

「ミルク飴・・・・じゃないのにしとけばよかった」

ぺろり、と舌で自分の唇を舐めた蓮は、にっこりと微笑んだ。 キョーコの頭のてっぺんからつま先まで、全てが赤く火照り、よ

うやく今の時間が、夢では無いと自らも気付く。

「・・・っ・・・」

「最上さんも・・・・・違う味がよかった?」

「ち、違います!そうじゃない・・・です・・・けど・・・あの・・・」キョーコの声がフェードアウトしていき、蓮はまた笑い吹いた。

「卒業おめでとう。大人の仲間入り、少し、しただろう?」

蓮はくすくす笑って、キョーコが怒ろうとしたのを見透かしたように、その長い足で教室の外へ逃げた。

「さぁ帰ろう。白い椿ももらった事だし?夜は・・・長いよね、まだ春前だし、大人の仲間入り、もっとしっかり教えてあげようか?」

いつかこの人に勝てる日がくるのだろうか?でも。

――私の春は・・・すぐそこ。 暖かくて幸せな春が、すぐそこに来る・・・。







作成:2005年春頃

2020.11.28